反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

無職・ニートに適正がある条件を考えてみる

 

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

人はそれぞれ嗜好が違います。そして、当然のことながら向き不向きの違いもあります。

スポーツ選手に学者は難しいでしょうし、逆に学者がスポーツ選手も向いていると到底思いません。人間には物事に対する適性というものが間違いなくあります。それなら無職やニートにも適性があるはずです。世間で言うダメ人間の適性なんかいらないって思うかもしれませんが、別にならなければいいんですから知っていても損は無いでしょう。得することも無いですが(笑)

 

ということで昨日は無職になった理由を語りましたが、今日は無職・ニートに適性がある条件を書き連ねてみたいと思います。一緒に自分だったら無職期間を耐えること、楽しむことが出来るかを考えてみて下さい。

 

 

人間は大きく分けて4つの気質に分類できると考えます。

別に美醜とか男女みたいな見た目の話をするつもりはありません。

外的刺激を求める人と求めない人と、他者との交流を重要とする人と重要としない人の二項目を掛け合わせたものです。ここでいう外的刺激とはアウトドアレジャーやショッピングなど金銭面に負担が掛かる事を示しています。

 とりあえず図表にしてみました。それが以下になります。

 

     1.外的刺激を求める   2.外的刺激を求めない
A.他者との交流を重要とする         1Aタイプ         2Aタイプ
B.他者との交流を重要としない         1Bタイプ         2Bタイプ

 

この通り4つに分類することができました。文字色の選択に他意はありません。

さて、この4つを無職に適性のある順に並び替えてみるとどの順番になると思いますか。

 

憶測が多分に入りますが、大体2B>>1B≧2A>1Aの順になるかと思います。

1Aの人は、多分無職でいるよりも和気あいあいとした職場で仕事している方がいいと思います。

2Aの人については、よく分かりません。自分の周りにサンプルとなるような人がいないし、上手く想像もできないので。申し訳ないです。

1Bの人は、無職でいる事自体は苦では無くとも金銭的に支障が出てきて無職を断念せざるを得ない人です。一人で遊びに出るにも金がかかりますからねぇ。

2Bの人は無職でいることに苦を感じないでしょう。お金を掛けずに毎日楽しむことが出来る人ですから。

自分はというと、2B寄りの1Bタイプでしょうね。現状大してお金は掛かっていなくとも出かける事自体は好きですし、ひたすら同じことをするっていう事が嫌いですので。

無職で暇だからこそ、こうしてブログに駄文を晒すことを良しとしてますし。

 

 

無職になると当然社会的な肩書が無くなるので、他人にナメられます。世間的には無職なんて許されず、軽んじてもいいものだと思われていますから。それが嫌だと思う人は無職でいない方がいいです。無職でいることに社会的なメリットって殆ど無いと思いますし。大多数からしてみれば好んで無職でいる奴は、能無しか臆病者、もしくは筋金入りの阿呆です。別に間違っちゃいないと当事者でも思います。

ですので考えなしに無職でいても仕方がないと、無職である自分が忠告しておきます(笑)当事者が言うんだから、これは間違いありません。ただ、考えがあって無職になるなら良いと思いますし、無職になる事自体は別に恥じる事ではないと思っています。

労働している人は偉いとは思いますが、それが本人にとって正しいのかはまた別の話です。偉い人が必ずしも正しい訳でも無いですし、偉い人にとって正しいことが皆に適応出来ることである訳でもないですから。

 

 

どうせ大体の人間は死ぬまでに半世紀近く働くことになるんですから、別に一時働かないでもいいんじゃないですか。やりたいことやって、後悔しない方がよっぽど幸せになれると自分なんかは思いますけれども。

しかしながら、これは将来的に家庭を持つつもりが無い奴が言っている事なので結婚したいと思う人はしっかりと将来設計しておいた方がいいと断言させて貰います。まあ、いくら計画しても雇われの身だと周りに振り回され続けるんでしょうけどね。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

25歳♂の自分が無職になった理由

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

この記事を書く前日は、弟と一緒に近くの公園で小魚などの水生生物を捕まえて遊んでいました。飼育するつもりはなかったので、帰り際に同じ場所に帰してきました。20過ぎの兄弟がド平日に仲良く遊んでいるのどかな光景です。職務質問されてもおかしくない(笑)ちなみに弟はちゃんと会社員してます。ダメな兄貴です。

 

さて、平日休日関係なしに遊んでいられるのは若年無職の特権なわけですが、それが理由で無職になったのかというとそういう訳ではありません。今回はそこら辺の事を書いていこうと思います。毎度のことながら役に立つことはありませんので、阿呆の戯言を楽しむつもりでお読みください。 

 

 

はじめに言っておかなければならないこととして、自分は大学卒業前から現在まで一貫して就職活動というものを殆どしてきていません。理由としては色々ありますが、現実逃避と無職であることの選択が半々程度でしょうか。面接は嫌ですし、書類に書くような事思い浮かびません。自分の一か月を20万足らずで売りたくもないですし、御上の為に労働するとか馬鹿らしくてやってられません。

 

そんな自分もバイト、フリーターを長年していましたが、今年の1月をもって辞めました。なぜ辞めるに至ったかというと、めんどくさいというのは当然ありましたが、ちゃんとした動機が2つあります。

1つめは、”自己の幸福の為に、労働する必要が有るのかを確認する”こと。

もう1つは、”無職に適性があるのかを確認する”ことです。 

とりあえず1つずつ説明を入れていきます。

 

 

まず1つめの理由である”自己の幸福の為に、労働する必要が有るのかを確認する”という事ですが、実家暮らしで衣食住がとりあえず保障されている自分は生活費がさして掛かるわけではありません。この先何十年もこの生活が続くとは思っちゃいませんが、早々に崩壊したとて見苦しく生き続けるつもりもありません。自分の家庭を持つなどもってのほかです。そこに、自分の趣味や交際費にかかる費用は大した額ではないという事も合わさり、月に大した額は必要としません。それならば、別に急いで働く必要もないのではないかと考えるに至ったのです。

無駄金としてソシャゲの課金がありますが、それを込みにしても全部で月額5万円前後で収まっています。スマホの解約なんかをすれば、ソシャゲ課金も止まり、月額3万には収まるはずです。お金があれば使いますが、無ければ無いでどうにでもなるのでは、と考え実行に移すこととしました。

親が死んだらどうするんだと言われそうですが、その時はさっさとくたばるか寄生先が親から国に代わるだけの話です。

 

もう1つの理由である”無職に適性があるのかを確認する”という事に話を移したいと思います。最近アーリーリタイアやら早期退職というような言葉もしばしば耳にしますが、それが出来る事とそれに適性がある事は全く別の話です。それと同じように、無職になる事と無職でいる事は全く違います。

無職になることは会社を辞めて労働をしなければいいので容易ですが、無職で居続けるには金銭と時間の使い方を考える必要が有ります。無職でも収入源が労働以外にある人はいいのでしょうが、現在の自分にはそんなものはありません。どうにかあるもので工面出来ないと娯楽の為に労働をせざるをえなくなります。

収入源がないなら、出来る事は支出を減らすことです。その事を考慮すると贅を尽くさないと楽しめないという人は無職には向いていない事が分かります。同時に収支の計算をざっくりでも考えない人も向いていません。どちらもお金がある事を当然として考えていますので。

そういう意味では無職が野暮ったくなるのも当然の話です。過剰に世間の目を気にして、世間に迎合していては、いくら金があっても足りませんから。それも無職の知恵と言えるのかもしれません。

 

 

無職となってもうすぐ4ヶ月となりますが、暇はしていますが別に社会に戻りたいとは思っていません。そして、貯蓄はカツカツではありますが、絶対に足りないという状況には陥っていません。20万足らずで無職期間に突入となりましたが、失業手当もまだ支給されていないことを考えれば上々でしょう。

とはいうものの、無職になってから1年間は住民税やら所得税の支払いでしんどいですね。勘弁してほしいものです。切実に。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

自分における外見と自己主張の関係

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

毎度この言葉から始めていますが、これを定型文とすべきなのかよく分かっていません。

 

皆さんはどんな髪型でどんな服装を好んでいますか。流行り廃りはあれどもその恰好は十人十色でしょう。流行り廃りというものもよく分からないのですが、それはまあ別の機会にでも書きます。

さて25歳のメガネ男子である自分の髪型はというと今は3mmの坊主頭です。数日前に再度刈り上げました。服装は殆どTシャツにジーンズといったラフな格好です。何かしら羽織ることもありますが、大体ユニクロの革ジャンです。坊主にメガネ、革ジャン。友人らには「見た目はインテリヤクザ」と度々言われます(笑)

そこらの高校生の方が絶対オシャレでしょう。というか、こう書くとデカい小学生みたいな格好ですね。

個々人の見た目には必ず内面が反映されます。自分がそんな子供みたいな恰好をしているのも自分なりの主張があるわけです。今回はそんなところから書いていきたいと思います。

 

 

そもそもいつから坊主なのかというと2018年の夏位からです。高校卒業からの6年程度はある程度髪を伸ばしていましたし、ごく稀にスタイリングもしていました。それ以前はというと坊主だったり伸ばしてたりとまちまちです。坊主歴自体は10年位はあるはずです。さて、何故再度坊主にしたのかというと、髪型にこだわるのがめんどくさくなったのです。髪質が硬く、癖毛なので寝癖がついたら直すのが面倒です。それなのにアピールする人もいるわけでもないのに髪型を保つ必要性が無い事に気づいたので、一気に刈り上げました。

端的に言えば、恋愛をするつもりが無くなったので刈り上げたと言えます。

 

顔の造詣整っている人をイケメンと言いますが、雰囲気イケメンという言葉もあります。当然顔の造詣は簡単には変えられない。どこを変えるのかというと、髪型です。

理屈は分かりますが、これに踊らされるのは阿呆の所業としか自分には思えませんでした。見た目に対するこだわりがそこまでない自分には装飾することの意義が理解できないのです。清潔と清潔感という言葉のニュアンスの違いも同様に理解できなかったのです。

見栄えが良いと内面が良いのかというとそんなことは微塵もありません。見た目は興味を持ってもらうきっかけとなりますが、見た目でしか興味を示さない相手は自分には必要ありません。余計なことを考える余地が消えるのが丸坊主の利点ですね。バリカンひとつで数十回髪を切れるコスパの良さも魅力です。

 

服装も同様に必要以上にオシャレをするつもりもありません。オシャレ以前に服を着るという行為が好きでないので、必要以上のアイテムを身につけたくないっていうのがあります。物を紛失しやすいという悪癖との兼ね合いもありますが。

多くの人にとって衣服は図らずともコミュニケーションのツールの一つとなっています。「その服イケてる」とか「その服どこで買ったの」みたいなやり取りを見た事があるんじゃないでしょうか。そもそもコミュニケーションを拒んでいる自分からすると、オシャレをしてそういったやり取りが発生するというのはマイナスなわけです。ですので、暗色もしくは単色の服装が殆どになります。自己主張は身に着けているアイテムだけで十分なのです。

 

身に着けているアイテムの選定基準はというと、基本は単色かつ機能性を重視して選定しています。メーカーだとかデザインに大したこだわりはありません。流行に乗るつもりもないので、被服費は年間でも10000円前後です。

これらを包括して何を主張したいのかというと、”面白い人間じゃないから必要以上に関わってくるな”と伝えたいのです。外見にこだわる位ならその時間と労力を別の所に回したいというもありますね。

オシャレにこだわる人とは真逆の行動原理と言えるかもしれません。

 

 

オシャレをしたところでその人の性質が変わるわけではありません。他人に迎合するために自己を偽る・抑圧するというのは自分からしてみると凄く苦痛なことなのです。

ですが、社会生活を送るうえではそれはある程度必要となります。メディアに踊らされて、それを苦としていない人達を羨ましいと思うこともあります。そして、その人達は先導するものが無くなった時にどのような行動を取るのか興味深いです。

他者に迎合して生きていく人生は安心感はあるのかもしれませんが、別にその人である必要が一切ないと自分は思っています。そのことに恐怖を感じないのは幸せなことかもしれません。

 

人生は一度きりです。それなのに他人の為に時間を使おうと思えるのは凄いと心から思います。凄いとは思いますが、自分もそうなりたいとは微塵も思わないから不思議なものです。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

失いたくないモノほど手に入れたくない

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

ようやく長かった冬も終わりを迎えたのか、ここ数日は日中20°前後の日が

続いています。暖かくていいことですが、4月半ばでこの気温っていうのは今年の夏も怖くあります。

 

そんなことはさておき、本日の題材に移りたいと思います。

皆さんは失いたくないモノって何か思い浮かびますか。すぐには浮かばなくとも何かあるのではないでしょうか。ある人は地位を失いたくないと思うかもしれませんし、またある人はお金を失いたくないと考えたかもしれません。

自分は何を失いたくないのかというと、家族です。家族というのは少し語弊があるかもしれません。正しくは自分の帰る場所です。座標ではなく、ポジションというのが近いですかね。

感覚的な話になってしまい申し訳ないのですが、今回は失いたくないモノの扱い方について述べていきたいと思います。

 

 

失いたくないモノを失うと、喪失感と後悔、焦燥感に襲われる事となります。ぽっかりと空いた心の隙間、何故どうにもできなかったのだと自分を責め、どうにか心の隙間を埋めようと躍起になる。身近な出来事だと、まだ大好きな恋人に振られたって状況でしょうか。自分には縁のない話ですが。半数程度の人は腑に落ちる表現だと思いたいものです。

さてここで縁のない話と言いましたが、これは今回の話の主軸になる要素です。というのも、何故縁が無いのかという方向に話が進むからです。

大好きな恋人の場合はそもそも恋愛しないと出来ることは無いというのが当然の話でしょう。当然の話ですが、これ自体が答えとなります。

 

何故失うのかというと、それを持っているからです。当たり前の話ですね。持っていないモノは失いようがありません。だからこそ、自分は手に入れる事自体を拒むのです。

欲しいことは変わりません。それでも、失わない為に諦めるのです。

負け組の思考なのは重々理解していますし、自分が変わらなければ他人との関係が良い方向に進むことがないのも分かってはいます。

それでも不確定なものを信用するには、自分の心は弱すぎます。繋ぎとめるには、自分の力は非力すぎます。弱者が強者に抵抗するには、正攻法ではいけないのです。

人一倍愛情に飢えていながら、愛情を向けてくれる人は信用しきれない。それが自分です。ハリネズミのジレンマみたいですが、少し違います。だって、基本的にハリネズミなのは自分だけで、相手は大体ただのネズミですから。見極める能力が欠如しているのが分かっているから、安全の為全てを拒絶せざるをえないだけで。

人の話を鵜呑みにしやすい自分がこれまでの人生から自己防衛の手段として身に着けたのが、対象問わずに拒絶するって方法なのは悲しくありますが仕方ないことです。

 

手に入れない方法自体は至極簡単です。行動を起こすことを拒み続ければいい訳で、それもまた自分には都合がいいことなのです。

心情と行動理念が合致した結果が現在の自分です。労働するわけでも、自分が好きなことをするわけでもなく、ただ毎日を腐ったように過ごす。

それでいいとは思いませんが、努力した結果報われなかったなどという自分の実力を突き付けられることはありません。成果が上がらなくとも、行動していないんだから当然で、落胆するようなこともありません。

 

”好かれる自信が無いから”とか、”やる前から諦めてどうする”とかっていう言葉は、強者の理屈です。これを言うのは殆どが報われてそこから落ちぶれていない奴らです。自分がいずれは理想になれると信じられる奴らです。

なるならない以前に、自分が信用できない、自分がよく分からない者には理想を描く事すら困難なのです。成功している自分が思い浮かばない。笑っている自分が想像できないのです。

言っていることの正当性は理解できても、そのことが自分に当てはめられるとは到底思えないのです。

 

行動を起こさないで後悔するのは誰なのかというと、間違いなく自分自身です。次いで両親でしょうか。正直、それも構いません。自分が困る分には責任が余所から来ることも余所に向かうこともないですから。全て自分で完結します。両親はまあ生産者責任です。幸福になって切り捨てるか、不幸になって足を曳くしか、自分には両親に仇討つ手段が思い浮かびません。特段不幸な家庭だとは思いませんが、そもそも現世に生まれ落ちることが不幸ですから自分は両親に恨みを向けます。

仏教には『人身受け難し、今已に受く 仏法聞き難し、今已に聞く』という言葉があります。意味としては、「人間に生まれたことが奇跡であるから、仏法を聞けることも奇跡である」と言ったところでしょうか。間違ったことを言っているとは思いませんが、いささか人間であることを過信し過ぎていると思います。生まれたことを当たりと考えているようですが、輪廻転生の輪から解脱することを目標としているなら生まれたことははずれなのではないでしょうか。

 

 

いつも通り話の方向が逸れてきたのでここらで終了としますが、生きる事は苦であり、苦を減らすにはと考えた結果が自分の場合は”手に入れない”という方法だったというだけのことです。それを推奨するつもりは毛頭ないですが、広い電子の海で検索かけても中々該当しなかったのでここで書き記すに至ったという訳です。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

何故献血に はまったのか

皆さん、こんにちわ。このブログの筆者のやくひなです。

皆さん、献血ってしたことありますか。自分は年に8回前後は行きます。

この記事を書いている前日も献血をしてきました。今回は、何故献血をするのかその理由を挙げていきたいと思います。

 

 

献血を好むのにも2つの要因があります。

1つは”献血センターの居心地の良さ”。もう1つは、”献血という行為への依存”です。

もちろん立地面で色々と優れているというのもありますが、主な要因は上の2つです。この2つの要因は、自分みたいな他人と一緒に居る事を好まない奴とはとても親和性が高いです。順に説明していきたいと思います。

 

 

1つ目の”献血センターの居心地の良さ”ですが、これは設備と利用者の2面から成り立っているものです。設備としては、空調完備、お菓子と飲み物自由、ある程度の漫画も用意されていると小さな漫画喫茶のような待遇です。よく行くセンターは、手相占いやカラーセラピーなども偶にやっていますね。これらの行為に支払いが発生しません。収入が発生していない無職には、とてもありがたいことです。

さて、ここで先ほど漫画喫茶と言いましたが、漫画喫茶の利用者を考えてみてください。あんまりガラが良くない人も思い浮かぶんじゃないでしょうか。献血センターはそういう人はほとんどいませんし、トラブルが起こるようなことも基本ないでしょう。

献血は受ける前に受付等で問診があります。これは、献血をする人と輸血を受ける人両者の健康被害を考慮してのものです。しかし、この受付で意図せずとも利用に適さない人を選別するということが行われます。アルコール、薬物を摂取している人はもちろん断られます。子供は献血対象とはならないですし、騒がしい学生集団はこういう場を好まないでしょう。仮に血の気が多い人が居たとして、採決後は物質的に血が足りません(笑)

こうして意図しない所で残った利用者の傾向から、静かで落ち着いた空間が出来上がるわけです。ここまでで、献血センターが居心地がいい場所であるということが少しでも伝わっていると嬉しいです。

 

2つ目の”献血という行為への依存”という面ですが、これは人によるかもしれません。少なくとも、自分は献血という行為に依存気味です。

初めの頃は、献血を通して誰かの役に立てばいいというような思いだけで献血に行っていましたが、今は違います。もちろん、自分なりの社会貢献ではあるのですが、自分の価値を創出する意味合いも少しあります。

献血することで誰かの役に立ちたい」から、「献血してることで誰かの役に立っているから自分にはまだ価値がある」に変化したと言えばいいのでしょうか。

自分が嫌いだから献血するというのもあります。自傷行為の代わりに献血に行く、と言いますか。死ねないなら少しでも死に近づきたいみたいな。上手く言語化できません。しかし、輸血をするために血を抜くという一連のプロセスに意味を見出していたのが、血を抜くという行為に対する執着にシフトしているのは確かです。

 

他人を拒絶している自分みたいな奴らは、どうしても社会との繋がりが弱くなりがちです。しかし、人間である以上自分の為であれ、他人の為であれ誰かの役に立つことを望みます。それが、生きがいと言えるものなのでしょう。ですが、自分は自己の時間を売りに出してまで誰かに貢献をするつもりはさらさらありませんし、絶対遵守するほど自分の命も重要ではありません。そんななかで、責任のあまり生じない他者貢献の方法として献血が適していたというだけです。献血と自分の価値はギブアンドテイクの関係と言えなくもないでしょう。

 

また、献血後には粗品が貰えます。歯磨き粉やタオル、インスタント食品などが多いですが、夏場にはアイスなんかも出していましたし、アニメやアイドルのコラボグッズもあったりします。コラボグッズは、まあ献血に適している対象を招くためのものなんでしょう。

他にも、自宅に採血結果の成分表を送付してもらえるようなサービスもあります。人間ドッグとか受けるほどではないけど、ちょっと気になるみたいな人にはいいのではないでしょうか。

 

 

話は少し変わりますが昨日耳にした、天気や温度などの気候条件によって来場する献血者の血液型の比率が変わるというのは面白い話だと思いました。今もかもしれませんが昔血液型占いというものが流行りましたが、あんなバーナム効果を利用したような分け方ではなくもっと深い所で血液型と行動原理は関わっているのかもしれません。

普段からAとOはある程度集まるけど、BとABの集まりは芳しくないとも言っていましたし、最近は自分の血液型を知らない人も増えてきているというようなことも以前耳にしました。

 

 

この記事を読んで献血に興味を持った人は、是非一度献血に行ってみてください。

もしかしたらあなたの気まぐれで、救える命が増えるかもしれませんよ。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

自分を変えるか、他人をかえるか

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

暖かくなってきたと思ったら寒い日が続いて正直しんどいです。

 

 

人間に限らず、個として確立してるものは十人十色です。当たり前ですが、さまざまな人がいます。自信ありげな人を好ましく思う人もいれば、疎ましく思う人もいるでしょう。会社の人だから仕方ないけど、私生活で関わる人は許せないという人もいるかと思います。その人は好きでも、その人のこういうところは好きじゃないってこともありますよね。

 人は誰しも合う人合わない人がいると思いますが、あなたは合わない人とどう接していますか。今回はそんな感じで書いていきたいと思います。

 

 

他人を変えるより、自分を変えるほうが容易いと言いますが、これには前から自分は疑問を抱いていました。言っている内容は理解できるのですが、腑に落ちないのです。

どうして他人の為に自分が変わらなきゃいけないのでしょう。前にもどこかで触れたかもしれませんが、自分はあまり個人に拘りがありません。逆に、拘りが強すぎるのかもしれませんが。

他人を変えるのに多大な労力がかかるのは分かります。一個人の働きかけなんかたかが知れていますから。しかし、その労力を嫌って自分を変化させるのは理解できてもしたくありません。日々変化をするものの為に適応し続けるだけの価値を他人に見いだせないのです。そういう考えが根底にあり、私は一つの考え方に至りました。

 

自分を変えるのでも、他人を変えるのでもなく、他人をすげ替えればいいと思うようになりました。

私生活においては、意見の摺り合わせなんかするつもりはありません。気に食わない、必要ないと判断したなら切り捨てて別の似たものを選べばいいだけの話です。

求める条件が少なければ、代替は容易です。多くなれば代替は容易ではなくなります。ですが、求める条件が多すぎた場合はまた話が変わってきます。多すぎるとそもそも満たせてる条件が少なくなるため、代替することに抵抗が無くなるのです。別に変っても理想では無かったから構わないと判断できます。

お前は人をなんだと思っているんだと言われそうですが、人は機能を満たすための器です。家族は家を運営するためのもので、友人は暇をつぶすためのもの、恋人は性欲を発散するためのものでしかありません。家を運営する必要がないなら家族はいらないし、暇をつぶせないなら友人も必要ありません。性欲の発散は現代においては彼女という形を取らずともなせることですので、これもまた必要とは言えないでしょう。

生きる必要を感じていないから、社会に出ようとも思いません。

 

 

店員でいた頃も客として利用する今も、愛想はいいと思います。好かれるのは面倒くさいことですが、嫌われていいことはあまり無いからです。それに、好かれるのは都合がいい。人間は曖昧な存在なので、元々の印象に判断が引っ張られます。好印象を愛想笑いとリップサービスで作れるなら安いものです。実際のところは、上手に作れてるかは分かりません。胡散臭いと思われているかも(笑)

意識的に印象操作をしても自分の本質は変わることがありません。しかし、受け手達の認識の中心軸はずらせます。無表情でいるより、作り笑顔でも笑っている方が好印象を受ける人は多いです。好印象なら敵にはなりません。味方はいてもいなくてもいいが、敵はいらないのです。

 

クレームを入れる人は正当な主張をしている人もいますが、多くの場合で自分に合わせて対応を変えろと言う阿呆な主張のものです。文句を言いながら利用を続けるというのは阿呆そのものです。しかし、そういう人は年配に多いです。そういう人が何を求めて不快を感じ続けても利用を止めないのか分かりません。これは人間関係にも言える事で、不快に感じても何故その関係を解消しないのかが自分には理解しがたいのです。

 

 

”他人を変えるより自分が変わったほうが早い”というのは個に執着する人にしか適応できないことです。また、個に執着する人は自分が言うような”他人を変えるより他人をすげ替えるほうが早い”という感覚は理解しがたいかもしれません。

別に理解してもらえなくとも構わないのです。ただ、そういう人もいるんだな程度でいいのです。理解できない人は否定しない、出来るだけ関わらないが最もお互いに不快な思いをしない選択です。

干渉しないという選択肢が多くの人に受け入れられることを自分は望んでいます。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

責任と精神的束縛

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

自分で言うのもなんですが、責任感と面倒見の良さはそこそこあると思っています。しかし、それがいい方向に作用しているかは別の話で、多分悪い方向にしか作用していません。今回はそんな感じで語ってみたいと思います。

 

 

責任は何事にも生じるものだと自分は思っています。仕事はもちろん、私生活でも何かしらの責任を背負っています。責任と人間的営みは切っても切れない関係です。

しかし、責任があるからと自分を変えるのはまっぴらごめんです。自分を切り捨てて生きる事に魅力を感じていません。

 

自分は動物が好きなので、飼育したいと思うことが度々あります。しかし、アレルギー体質でもあるので毛がある動物は基本的にNGです。そうなると水槽での飼育が可能な生き物になるのですが、魚類にはあまり魅力を感じないので虫や爬虫類、両生類などになります。彼らは自分の好みですが、かなり人を選ぶ見た目をしています。

さて、自分に不慮の事態があったときに彼らの世話は誰がするのでしょう。誰かしらしてくれると信じたいものですが、往々にしてこういった期待は裏切られるものです。誰かが面倒見てくれるなんて甘い考えは持つべきでありません。そうなると、彼らの命を自分の都合で巻き込むべきではありませんので、飼育するべきでないと考えるに至るのです。自殺することを視野に入れてるならなおさらです。

なら、自殺をするのを諦めればいいと考えられるでしょうが、自殺を諦めたとて彼らの飼育にもお金はかかります。そうなると、労働をすることが強制されます。それも御免被りたいのです。自分の人生どこで捨てようが自分の勝手だろうと考えているので、自己判断で行動を起こせない状況が気に入りません。

そんなやつが会社勤めなど望むわけもなく、労働というものを嫌悪するに至りました。

自営業ならいいかもとは思いましたが、下駄を履かせても人並み前後の奴に自営業のセンスがあるとも思いません。仮にどれだけ会社が大きくなっても、一人で運営するなどというのは自分には無理です。

 

恋人も同じようなもので、恋人にも幸せになる権利はありますが、自分といてもきっと幸せにはなれないでしょう。自分自身も恋人に時間を奪われたくないので、つくるべきではないと判断しています。しかれど男である以上性的欲求は高まることもあるので、その欲望のはけ口は欲しいので、ときたま性風俗にも行くのです(笑)

 

判断を下す、小集団のまとめ役になることは、時々あります。及第点ギリギリ程度の成果は上げますが、やりたいことかというとやりたくはないですし、間違いなく向いてはいません。やるひとがいないから、引き受けるだけです。

集団での行動が嫌いなのも、自分勝手な行動が許されなくなるからです。他人に合わせるのは嫌いですが、他人に一切気を使わないほど図太い訳でもないので結局気楽な一人でいる事を選択するからです。一人でいることを苦に感じないので、さして困ることもありません。

 

 

責任感と束縛を嫌う気質が混ざり、生きる事に対する執着の低下に繋がっています。

しかし、自殺も責任が生じます。残された人の心の傷です。正直、あまり重要視はしていませんが、祖父母に悲しみを背負わせるのは本望ではありません。実行するのは、祖父母が無くなってからでしょう。これまでも可愛がって貰いましたからそこは孫としての義理人情に殉じるつもりです。ならば両親はどうなんだと思うかもしれませんが、両親は知ったことではありません。無理やり現世に引っ張り出した加害者のことなど考えるつもりはありません。

しかし、自殺したいがために祖父母の寿命を願う孫というのは嫌なものですね。

 

 

多数の幸福は願っていますが、それらは自分の幸福とは比較するまでもありません。自分が幸福になるために、他人を巻き込むべきでないという自論に縛られ今日もまた生きていくのでしょう。思考から変えることが出来たなら幸福になれるのかもしれませんが、その方法が分からない。どうでもいいから、早く楽になりたいものです。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。