反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

自分の尻を自分で拭けない人を生かす必要が有るのか 短絡的な解決方法と一緒に

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

つい先日、近くの園芸店でハエトリグサの鉢をお迎えしました。これまで植物を育てた経験なんて、小学生の時に朝顔のお世話を偶にした程度なので不安ですが、手探りながらも育てていきたいと思っています。

 

さて、今回はタイトルにある通り自分の尻を自分で拭けない人を生かす必要が有るのかという事について考えを書いていきたいと思います。

皆さんお分かりでしょうけれどもここでの自分の尻を拭けないというのは、物理的なものではなく言葉のあやです。物理的なものは当然含みますけれども。

なぜこんなことを思ったのかと言いますと、最近のニュースは高齢化社会に関係するものが多く、そもそも高齢化した人達全員の保障をする必要が有るのかと考えていたところ、年齢の老若よりその人の生産性の方が重要なのではと考えるに至ったからです。

人間が生きるのにはそれなりのコストが掛かるわけですが、そのコストを自己負担出来ないどころか他者に背負わせるような奴は果たして必要なのでしょうか。

それについて、自分の考えを書き連ねていきたいと思います。

 

 

まず、自分が生かす必要が無いと考える人物の対象を明確にしていきます。

条件付けは大きく分けて以下の3点で、

・自分の事を自分でこなせなくなった高齢者

・自分の事を自分でこなすつもりが無い若年中年層

・意思の疎通が成り立たない人

は早々にご退場願えたらなと思っています。

直接的に言うなら、植物状態の人や要介護者、ニート知的障害者はさっさと死ねと思っています。どいつも他者の資産を食い散らかす害虫と何ら変わりないと思っていますので、社会的に余裕が無くなってきているのなら、どうにかして社会的余裕を生み出す必要が有ります。その方法が、不要な人材の破棄です

先駆者は先駆けただけの存在で、別にその人自身が偉いのではありません。先人の知恵は、情報の内容は当然価値がありますが、情報の拡散が困難だからより価値があったのです。紙が貴重な物でない今、情報をわざわざ口述のみで残すような事をする必要がありません。

選別対象者から、自分を除外するつもりは毛頭ありませんし、自分の身内も同様の条件で間引かれて良いと思っています。

ただし、子供の場合は例外です。義務教育終了の15歳までだと成長の度合いによって不公平が生じるかと思いますので、高等学校卒業までは保留にすればいいのかなと。

また、妊娠や物理的な大怪我なども保留でいいかと。普段は出来るでも出来ない場合というのは有るでしょうし、これらの対象を排除するのは国力低下に繋がるでしょうから。

 

さて、次はどう分類分けするのかと言うところですが、体力,認知力の合計スコアを測定してそこから緩めの基準を設定すればいいかと思います。そうですね、これだけだとニートの選別が満足に行えないので、自己の収入では満足に生活が成り立たない者を対象としての実施としましょうか。

スコアの設定は小学校高学年にも同じことをしてもらって、その平均スコアから少し落としたところにしましょうか。

ようは小学生高学年以下の能力かつ自活するだけの収入が足りていない者は者は間引かれればいいという考えです。

 

 

これを実行すると、社会がどう変わるかと言うと、間違いなく日本から外国に国籍を移す者が現われます(笑)

ただ、残った者は、それなりの収入増加は見込まれるかと思います。収入の増加をさせないと社員が減少しかねない場面が生まれる訳ですから当然そうなるかと思います。

また、残留国民の健康状態は間違いなく向上します。健康管理に気を付けておけば死なずに済む場面も増えますからこれもまた当然でしょう。

そして、社会保障費が下がります。保障する対象がある程度削減されるわけですからこれも当然と言えるでしょう。

国民は国の宝とも言いますが、ここで国の宝と言えるのは一定水準の価値がある者だけです。頭数だけなら必要ありません。

 

 

超管理社会になりディストピア感をひしひしと感じる事を書き連ねていますが、生産性の無い者を生かし続ける必要を感じないのでこれでいいやという投げやりな思考からの記述です。倫理的に問題が多そうなのも分かっていますが、別にそんなこと知ったことではありません。

願わくば社会がより健全かつ合理的な方向に発展していってほしいものです。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。