反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

「無敵の人」は何故生まれるのか ~川崎殺傷事件を考える~

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

 

川崎での殺傷事件によって「無敵の人」という言葉が世間にそれなりに認知される事となりました。痛ましい事件だと思いますが、まあ起こるべくして起こったのかなと思わないでもない次第です。別に犯人を擁護するつもりはありません。他者の命に干渉することは許されざることだとは思います。

ニュースやワイドショーなどでも調査・考察が進んでいますが、流れに乗じて自分も駄文を垂れ流してみる事とします。

専門家でもないですし、犯人の人柄を知っている訳でも無いので、真相とは程遠いものにはなりますが、シンパシーは感じないでもなかったのでここに書くこととします。

 

 

そもそも「無敵の人」が生まれる要因は何なのかという話なのですが、これは多分日本に強く根付いている”はみ出し者に当たりが強い”っていう社会背景があると考えています。

 

人間は何かと優劣をつけたがります。どこの国もそうなのかは知りませんが、日本人は周りから抜きんでる事も落ちこぼれる事も基本的に良しとはしません。それなのに優劣をつける事をしますので、当然明快な弱者を必要とします。いわゆる格下の人間と言う奴です。

そして、格下の人間が這い上がることを許そうとしない社会風土が出来上がっているように自分には感じられます。新卒を過剰に有り難がり、ニート・童貞などの今まで日の目を見ていない者達には強く当たる。不幸があってその立場に甘んじる事を余儀なくされた者達に強く当たる。普通の事のように感じるかもしれませんが、これは普通じゃありません。

別にそういった格下の人間を優遇しろなんていうつもりは毛頭ありません。必要以上に刺激するなと言いたいだけです。

 

はみ出し者に当たりが強くなりがちなのは分かりますが、そういった人たち自身が一番現状の自分を否定したくて堪らないと思っていることも多いでしょう。

自分で自分を否定しているところで、外部からも排斥されたらどうなるのか。

不条理な話ですがその怒りは、矛先を外部に向けます。

「自分が悪い、どうにかしなきゃ」と思っていたものが、「受け入れない社会が悪いんだ」と変換されることになります。その方が自責の念と良心の呵責に悩まされないで済みますから。

個人の発言が不特定多数への害意に変わるわけです。

それが今回の事件の動機に繋がったと自分は考えています。

 

 

さて、次に今回の事件被害者の方に目を向けてみる事とします。

被害者の属性は、死亡者が成人男性1人と女子児童1人。重軽傷者が大人1人に子供16人の合計19人みたいですね。

まあ、大人2人はその場に居てヤらなきゃ妨害されると判断したんだと思います。狙いは子供だったはずですので。

何故子供を狙うのかと言うと、”自分より弱い者である”というのがまず一つあります。子供相手なら抵抗してきたにしろ、逃走したにしろその後の対応はそう難しいものとは思えません。

 

次の二つは確証があるわけではないですが、自分ならそういう選別をするというものです。

二つ目は、”たまたま目についた”というものです。目についたというのは少し違うかもしれません。子供の声と言うのは、大きく高いので耳につきます。強制的に存在が認識させられやすいのです。普通の人なら苛立つことはあっても、まあ子供のやることだしと割り切れるものでしょうけど、普段から怒りをため込んでいる人は違います。子供だからこそ、強く出ます。しかし、そんなことをしても怒りは収まる訳がありませんし、問題の解決には繋がりません。一人がやめたとして子供は多くいます。

三つ目は、”不幸を拡大する為”というものかと思います。はみ出し者は往々にして何かしらの鬱憤は抱えています。それがどういう事に根差している物なのかは人によりますが、自分がはみ出し者であるという意識から生まれたものであるというのは確かでしょう。はみ出し者であるからと排斥された者は、個人に対しての恨みよりその属性に対して恨みを向けます。

子供と言うのは幸せの象徴として見られています。幸せの象徴であるならそれを傷つけたらどれだけ多くの人が胸を痛めるのでしょうか。

大人を傷つけてもせいぜいその人の親族と会社、友人程度にしか心の傷を負わせられません。部外者は「怖い」「じぶんじゃなくてよかった」その程度でしょう。その点、子供を傷つけたなら、親族、友人、学校関係者、習い事先、関係のない子供持ちの親などに恐怖心を植え付けられます。

計画が頓挫する可能性が低く、被害を大きくできる。これほど都合のいい対象はありません。

 

 

次は場所に目を向けてみようと思います。

場所は朝の私立小学校スクールバスの停留所でしたっけ。これも上手い選択だなと思います。

こういう事件って、公園とかが選ばれそうなものですが、公園ってそれなりに大人の目が有る場所で遮蔽物もあり子供が点在するので、子供が逃げた場合に追うことが困難な場所に思えます。

その点、朝は仕事の為悠長に子供に目を向けている暇がある大人は多くありません。そもそも、そんな事件が起こるんて想定もしないでしょうから、目もくれないかもしれません。そして、スクールバスの停留所だと子供は一カ所に集まり、それぞれが友達と話す、道路を見つめるなどしているでしょうから、あまり近くの様子に気を配っているような子がいるとも思えません。さらには、犯人が襲いかかって気付かれたとしても子供たちには学校に行くという使命があるので、反射的に逃げるという選択が出来るかは疑問です。

私立学校の生徒の親は金持っている(成功している)イメージがあるので、嫉妬ももしかしたらあったのかもしれません。

 

 

今回の事件が自殺によって終息したように「無敵の人」と呼ばれる人は、失って困るものを持っていないこと自体が事件の動機として考えられるわけです。

「無敵の人」を生み出さない方法は大まかに二つに分けられるのかなと考えています。

一つは、”はみ出し者を今以上に排斥すること”です。これはてっとり早そうに思えますが、現実的ではありません。中途半端じゃどうしようもないですし、さらにヘイトを溜めるだけですから徹底的にやる必要が有りますが、その方法が現状用意できないかなと思います。

もう一つは、”はみ出し者を受容すること”です。はみ出し者がはみ出し者である所以は、社会が排斥するからです。別にはみ出し者を優遇しろなんて言うつもりはありません。はみ出し者であることを受け入れてください。無関心でいればそれでいいのではないかと思います。そうすれば社会復帰するにしろ、社会から逃避するにしろ自分でケリをつけるでしょう。

 

無敵の人とそうでない人の違いは、お金の有無よりも、自分の存在意義の有無が大きいと思います。ホームレスが無敵の人かといったら違うはずです。彼らには彼らなりのコミュニティがあるはずですし、それなりに社会とのやり取りもあるでしょう。

今回の事件の犯人は色々と複雑な家庭環境みたいですが、おそらく自分の居場所が感じられなかったんでしょう。

犯人にとって被害者は社会に対する復讐の足掛かりであり、一人で逝くことへの寂しさからの副葬者だったのかなと思っています。

 

 

ここまで書いてきた自分の事をかなりヤベー奴って思う人もいるかもしれませんが、そういう事件を起こそうとは現状考えていません。ここで断定しないのは、実行の意思があるというより人間の意識は揺らぐものだという認識だからです。自分としては死ぬなら一人で逝きたいですし。

 

なんにせよ傍迷惑な犯人ですし、被害者の方々の心の傷が癒えることは切に願っています。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。