反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

自分を変えるか、他人をかえるか

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

暖かくなってきたと思ったら寒い日が続いて正直しんどいです。

 

 

人間に限らず、個として確立してるものは十人十色です。当たり前ですが、さまざまな人がいます。自信ありげな人を好ましく思う人もいれば、疎ましく思う人もいるでしょう。会社の人だから仕方ないけど、私生活で関わる人は許せないという人もいるかと思います。その人は好きでも、その人のこういうところは好きじゃないってこともありますよね。

 人は誰しも合う人合わない人がいると思いますが、あなたは合わない人とどう接していますか。今回はそんな感じで書いていきたいと思います。

 

 

他人を変えるより、自分を変えるほうが容易いと言いますが、これには前から自分は疑問を抱いていました。言っている内容は理解できるのですが、腑に落ちないのです。

どうして他人の為に自分が変わらなきゃいけないのでしょう。前にもどこかで触れたかもしれませんが、自分はあまり個人に拘りがありません。逆に、拘りが強すぎるのかもしれませんが。

他人を変えるのに多大な労力がかかるのは分かります。一個人の働きかけなんかたかが知れていますから。しかし、その労力を嫌って自分を変化させるのは理解できてもしたくありません。日々変化をするものの為に適応し続けるだけの価値を他人に見いだせないのです。そういう考えが根底にあり、私は一つの考え方に至りました。

 

自分を変えるのでも、他人を変えるのでもなく、他人をすげ替えればいいと思うようになりました。

私生活においては、意見の摺り合わせなんかするつもりはありません。気に食わない、必要ないと判断したなら切り捨てて別の似たものを選べばいいだけの話です。

求める条件が少なければ、代替は容易です。多くなれば代替は容易ではなくなります。ですが、求める条件が多すぎた場合はまた話が変わってきます。多すぎるとそもそも満たせてる条件が少なくなるため、代替することに抵抗が無くなるのです。別に変っても理想では無かったから構わないと判断できます。

お前は人をなんだと思っているんだと言われそうですが、人は機能を満たすための器です。家族は家を運営するためのもので、友人は暇をつぶすためのもの、恋人は性欲を発散するためのものでしかありません。家を運営する必要がないなら家族はいらないし、暇をつぶせないなら友人も必要ありません。性欲の発散は現代においては彼女という形を取らずともなせることですので、これもまた必要とは言えないでしょう。

生きる必要を感じていないから、社会に出ようとも思いません。

 

 

店員でいた頃も客として利用する今も、愛想はいいと思います。好かれるのは面倒くさいことですが、嫌われていいことはあまり無いからです。それに、好かれるのは都合がいい。人間は曖昧な存在なので、元々の印象に判断が引っ張られます。好印象を愛想笑いとリップサービスで作れるなら安いものです。実際のところは、上手に作れてるかは分かりません。胡散臭いと思われているかも(笑)

意識的に印象操作をしても自分の本質は変わることがありません。しかし、受け手達の認識の中心軸はずらせます。無表情でいるより、作り笑顔でも笑っている方が好印象を受ける人は多いです。好印象なら敵にはなりません。味方はいてもいなくてもいいが、敵はいらないのです。

 

クレームを入れる人は正当な主張をしている人もいますが、多くの場合で自分に合わせて対応を変えろと言う阿呆な主張のものです。文句を言いながら利用を続けるというのは阿呆そのものです。しかし、そういう人は年配に多いです。そういう人が何を求めて不快を感じ続けても利用を止めないのか分かりません。これは人間関係にも言える事で、不快に感じても何故その関係を解消しないのかが自分には理解しがたいのです。

 

 

”他人を変えるより自分が変わったほうが早い”というのは個に執着する人にしか適応できないことです。また、個に執着する人は自分が言うような”他人を変えるより他人をすげ替えるほうが早い”という感覚は理解しがたいかもしれません。

別に理解してもらえなくとも構わないのです。ただ、そういう人もいるんだな程度でいいのです。理解できない人は否定しない、出来るだけ関わらないが最もお互いに不快な思いをしない選択です。

干渉しないという選択肢が多くの人に受け入れられることを自分は望んでいます。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。