反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

責任と精神的束縛

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

自分で言うのもなんですが、責任感と面倒見の良さはそこそこあると思っています。しかし、それがいい方向に作用しているかは別の話で、多分悪い方向にしか作用していません。今回はそんな感じで語ってみたいと思います。

 

 

責任は何事にも生じるものだと自分は思っています。仕事はもちろん、私生活でも何かしらの責任を背負っています。責任と人間的営みは切っても切れない関係です。

しかし、責任があるからと自分を変えるのはまっぴらごめんです。自分を切り捨てて生きる事に魅力を感じていません。

 

自分は動物が好きなので、飼育したいと思うことが度々あります。しかし、アレルギー体質でもあるので毛がある動物は基本的にNGです。そうなると水槽での飼育が可能な生き物になるのですが、魚類にはあまり魅力を感じないので虫や爬虫類、両生類などになります。彼らは自分の好みですが、かなり人を選ぶ見た目をしています。

さて、自分に不慮の事態があったときに彼らの世話は誰がするのでしょう。誰かしらしてくれると信じたいものですが、往々にしてこういった期待は裏切られるものです。誰かが面倒見てくれるなんて甘い考えは持つべきでありません。そうなると、彼らの命を自分の都合で巻き込むべきではありませんので、飼育するべきでないと考えるに至るのです。自殺することを視野に入れてるならなおさらです。

なら、自殺をするのを諦めればいいと考えられるでしょうが、自殺を諦めたとて彼らの飼育にもお金はかかります。そうなると、労働をすることが強制されます。それも御免被りたいのです。自分の人生どこで捨てようが自分の勝手だろうと考えているので、自己判断で行動を起こせない状況が気に入りません。

そんなやつが会社勤めなど望むわけもなく、労働というものを嫌悪するに至りました。

自営業ならいいかもとは思いましたが、下駄を履かせても人並み前後の奴に自営業のセンスがあるとも思いません。仮にどれだけ会社が大きくなっても、一人で運営するなどというのは自分には無理です。

 

恋人も同じようなもので、恋人にも幸せになる権利はありますが、自分といてもきっと幸せにはなれないでしょう。自分自身も恋人に時間を奪われたくないので、つくるべきではないと判断しています。しかれど男である以上性的欲求は高まることもあるので、その欲望のはけ口は欲しいので、ときたま性風俗にも行くのです(笑)

 

判断を下す、小集団のまとめ役になることは、時々あります。及第点ギリギリ程度の成果は上げますが、やりたいことかというとやりたくはないですし、間違いなく向いてはいません。やるひとがいないから、引き受けるだけです。

集団での行動が嫌いなのも、自分勝手な行動が許されなくなるからです。他人に合わせるのは嫌いですが、他人に一切気を使わないほど図太い訳でもないので結局気楽な一人でいる事を選択するからです。一人でいることを苦に感じないので、さして困ることもありません。

 

 

責任感と束縛を嫌う気質が混ざり、生きる事に対する執着の低下に繋がっています。

しかし、自殺も責任が生じます。残された人の心の傷です。正直、あまり重要視はしていませんが、祖父母に悲しみを背負わせるのは本望ではありません。実行するのは、祖父母が無くなってからでしょう。これまでも可愛がって貰いましたからそこは孫としての義理人情に殉じるつもりです。ならば両親はどうなんだと思うかもしれませんが、両親は知ったことではありません。無理やり現世に引っ張り出した加害者のことなど考えるつもりはありません。

しかし、自殺したいがために祖父母の寿命を願う孫というのは嫌なものですね。

 

 

多数の幸福は願っていますが、それらは自分の幸福とは比較するまでもありません。自分が幸福になるために、他人を巻き込むべきでないという自論に縛られ今日もまた生きていくのでしょう。思考から変えることが出来たなら幸福になれるのかもしれませんが、その方法が分からない。どうでもいいから、早く楽になりたいものです。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。