反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

好きと表現することの抵抗感

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

皆さんはそれぞれ好きなことありますよね。周りの人にも知られてることが多いかとは思いますが、誰しも自分だけで完結している好きなことっていうのがあるんじゃないでしょうか。今回は、なぜ自分だけで完結してしまうのか考えてみたいと思います。

 

表現することには何かしらの意味があるのは分かると思いますが、同時に表現しないことにも何かしらの意味があることを皆様はお気づきでしょうか。

熱心に何かを眺めて人がいると、その人の興味が視線の先のものにあるのは周知の事実だと思います。しかし、同時にその周りのものに興味が向いていないことも表しています。

これからなにが分かるかというと、眺めている人は観察対象に視線を向けていることに恥じらいを持っていないことが分かります。みなさんも憶えがあるんじゃないでしょうか。中学生の頃の自分は、ライトノベルをレジに持っていく事が凄く恥ずかしいもののように思っていました。

 

 

好きだけれども大々的に公表するのは忍ばれる事は、その人がコンプレックスに思っていることと何か関係している場合が多いです。アニメが好きなのに隠している人はアニメというものに良い印象は持っていないでしょうし、サッカーをするのが好きなのに隠している人はあまり上手では無い事にコンプレックスを感じています。それでも周りに公表する人もいますが、いったいなにがちがうのでしょう。

それはその物に対する好意に自信が有るかどうかの差です。下手くそでも知識が少なくても、好きなものは好きといえるかどうかの差です。そして、子供の頃の経験の有無です。子供の頃に好きだったものを否定された経験を持つ人は、好きなものを好きと表現しなくなることが有ります。

これが悪いことなのかというとそういう訳ではなく、全てはその人の処世術で、そうやらないと今までやってこれなかった事の裏付けです。

 

自分の部屋には漫画本ライトノベル小説などの紙媒体が1000冊近くあります。しかし、陳列の方法にもこだわりを持っています。こだわりと言ってもできるだけ目立たせること目的とはしていません。むしろその逆で、出来るだけ目立たせないことを目的としての陳列です。これも抵抗感の表れ方の一つでしょう。

 

何故公表しないで隠すような事をするのかと考えると、人間が社会性動物だからということに他ならないと思います。社会性動物は集団で生活するいきものですから、迫害されるのが何より困ります。しかし、中途半端に知性が発達してるいきものなので、他者との違いに過剰と言えるほど反応します。日本人なんかは、昔から集団での生活を刷り込まれてきてるので、なおさらです。表現することで不要な争いを生まない為に、表現しないという方法を取っていると言えるでしょう。

現代はSNSという場で、今までひた隠しにしてきた同好の士を見つけられるようになって、市民権を得たと勘違いしている人が多そうですが、そんなことは全くないというのが怖いことです。

 

自分は好きなものは色々ありますが、それを公言することはあまりしません。それは知識が無いのを理解しているからです。他人とはなんとも面倒かつ自分勝手で、自分の予想より大幅に上だと嫌悪の感情を抱き、自分の予想より下だと落胆の感情を抱くものです。落胆される事を承知の上で何故公表しなければならないのでしょう。

そして、他人との関わりを持ちたいとも思わないので、好きなものは特に無いというのです。会話の取っ掛かりを自分から作らないというのが自分なりの処世術と言えるはずなのです。しかし、人間の脳は不思議なもので、好きなものは無いと聞き続けると本当に好きなものは無いと判断し始めます。そのせいもあり、自分が好きなものはなんなのか、よく分からなくなっています。自業自得ですね。

別に他人に嫌われたい訳ではありません。ただ必要以上に好かれたくないだけです。社会性動物だからこそ自分が生きやすい為には社会を隔絶するための行動をしなければならないというのが何とも笑える話です。

 

 

大半の人は、隠さざるをえないから自己完結しているだけで、したくてしている人は多くないと思います。自分の受け入れられないものを迫害するのではなく、見なかったことに出来る人が増えたらいいなと思っています。

 

これだけ書いてあっても、碌な情報無いなと思われる人もいるかと思いますが、正直申しますと社会不適合者の自分から学ぶことなんてさしてありません。それでもまあ一つ言うとするならば、”自分の心に嘘をつくような生き方をしてはいけない”ってことでしょうか。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

自殺の是非

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

 

皆さんは自殺と聞いてどんなイメージを持つでしょうか。

暗い、負け組、もったいないなど、あまりいいことであるイメージはもたないのではないでしょうか。

しかし、自分は自殺という行為にあまり悪いイメージはありません。推奨するようなことはしませんが、何としても引き止めるようなつもりは毛頭ありません。

今回は、自殺について書いていきたいと思います。

 

自分の身の回りの人が自殺を企てていると知ったら、過半数の人がその人の考えを改めさせようとするのではないでしょうか。しかし、自分は先にも書いた通り無理に引き止めるようなことはしません。あくまでどういう感情になるか伝えて終わりにするつもりです。薄情に思うかもしれませんが、多分変わることは無いでしょう。

 

そもそも、現代人は死というものを嫌悪し過ぎていると考えてしまいます。生きるということは、死ぬということと絶対に切り離すことはできません。それなのに、どうして生きるということだけを重視するのでしょう。

生きるということは変化の継続です。その揺らぎを楽しめる人もいれば、揺らぎを苦に思う人がいるのも不思議なことではありません。どうして、その揺らぎが止まるだけの行為である死を嫌悪するのでしょうか。

 

 

人が死ぬという事象は、感情の揺らぎがおこり易いものです。揺らぎ方や揺らぐ範囲は人によって違いますが、殆どの人は死という事象で何かしら感情が揺らぐことだと思います。

ではなぜ、死というものに対面したら感情が揺れ動くのか。その答えは多分、死というものが生物とは切っても切り離せない事象だからです。しかも、それを見つめて自分なりの答えを探すということは、強い恐怖と向き合うことに他なりません。知れば知るほど、逃れられないことを理解するのだから当然です。だから、多くの人は死というものの存在を見なかったことにしたがります。なので、それを突然に目の前に突き付けられることになる”自殺”ということも嫌悪します。

 

 

そんなつもりじゃない、自殺する人の事を思ってと言う人も多いのではないかと思いますが、それを相手に押し付けることは酷じゃないでしょうか。

身内、友人といえども、自殺志願者とは別の個体です。つまりは、他人なのです。他人の意思を抑圧して、元の幸福とは思えていない状況に引き戻すのは本当にいいことなのでしょうか。

引き戻した後すぐに幸福だと思える状況になるとは到底思えません。そこで変化しなければ幸福でない状況を長く味わっただけです。前回自殺を志願した段階で決行できていた方が幸福であったとも考えることができます。

 

 

死んだらこれから楽しいことがあるかもしれないのにもったいないじゃないか、と言う人もいるかもしれません。というか、これを言う人はかもしれないなんて言い方はせずに、断定しそうですよね。全く根拠が無い状態でも。

しかし、楽しいことがあるから自殺を辞めるべきというのも、理由としてはあまり強いものとは言えないと思います。

人の命は不可逆です。生から死はあれども、死から生はありません。死んだら幸不幸の概念は必要無いし、それを知覚する主体はもうそこに存在していません。死んだら楽しめないというのは、死んだら苦労が無いということに他なりません。そこに何の問題があるのでしょうか。

 

生きてるだけで儲けもの、死んだら負けみたいなことをいう人もいるんじゃないでしょうか。はたして、それは本当なのでしょうか。

生きていなければ幸福にはなれないというのがこの発言の真意なのでしょうけれども、そもそも生きていて幸福だと感じていないから自殺を志願する人がいるわけです。志願者は、不確定な幸福を追い続けることに辛さを感じているのに、それを再度突き付けるというのはあまりにも酷いことなのではないでしょうか。

 

 

何が言いたいのかと聞かれそうですが、”自殺を抑止して幸福になったのは誰なのか”ということです。

志願者は環境が改善されたならば幸福になったといえるのかもしれませんが、そうでなかった場合は違います。だとしたら、幸福になったのは自殺を止めた人でしょう。自殺を止めた人は自分が幸福であるために、他人に不幸であることを強要しているのです。

何も考えずに自殺を思い留まるよう懇願するのは簡単です。しかし、決断をした人は自殺の意思決定を否定されているのです。思い留まった後に苦労するのは、志願者で止めた人ではありません。止めるのであればその後も手を貸してあげるべきなのではないでしょうか。それが、止めた人の責任でしょう。

自殺に限ったことではないですが、自分の行動の責任をとるという行為をしない人が今は多いと感じています。

 

 

自分自身も度々自殺願望が湧いてきますが、実行はいまだ出来ていません。というのも、どのラインからなら確実に即座に死ねるのかが分からないからです。今すぐ死のうなどと思うほどの切迫感が無いというのも要因ではありますが。

死ぬなら確実に死にたいですが、ブログなどではなかなか情報はありません。これは当たり前なのですが死人に口なしということで、死にきれなかった人の経験譚が多く目につきます。しかし、時間が経つにつれて生還例は蓄積されていきます。それがまた自殺を躊躇わせる要因として積み上がっていきます。

今より不自由になっても生きていたいとは自分は思わないので、確実に死ねる方法が無いというのが現在の私が生き続ける理由です。生きる事自体に執着はあまりありません。

 

 

自殺を抑止する必要がないのかというとそうではありません。自殺をする人は悪ではないが、自殺者を生む社会は悪だと思っているからです。自分の意思が存在するのに集団生活で自己を押し留める生活を余儀なくされる人間社会で、自殺者を0にするのはまず無理だと思います。しかし、自殺者の数を減らすことは出来るはずです。

時代情勢などの歴史的バックグラウンドなどもあるのは重々承知ですが自殺者の層が偏っているのであれば、何かしらその層に負担がかかっているのではないでしょうか。自殺者層の偏りが修正されていけば社会的安定に近づくと考えるのは安直かもしれませんが、全てが間違っているとは思いません。

生きている間に少しでも生きやすい世の中になっていく事を願っています。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

承認欲求と自己肯定感の関係

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

 

今回は、承認欲求と自己肯定感について書いていきたいと思います。

これらの言葉に聞きなれないものを感じた人もいるかもしれませんが、これらは現代の若年層の行動と密接に関わっているものです。

 

さて、承認欲求と自己肯定感という言葉について適当に説明しますが、

承認欲求は”誰かに認められたい”という欲求を表し、自己肯定感は”自分をどれだけ否定しない”かという尺度を表す言葉です。

人の行動の根底には、基本的にこのどちらかの要素が含まれています。

ブログを書くという行為も、承認欲求を元にした行為と言えるでしょうし。

 

他人とのかかわりが薄い自分は、自前でサンプリング数を用意できないので諦めて自分の考えに基づき語る事とします。

 

 

承認欲求と自己肯定感とは、バランスよく形成されるべきものでありどちらかだけが肥大化するととても醜悪なものに変わります。承認欲求だけが肥大化すると自己中心的で嫉妬深くなり、自己肯定感だけが肥大化すると能力は伴わないが傲慢になります。しかし、現代はこのバランスを整えるのが難しくなりました。その原因となるのが、インターネットやSNSの台頭です。

 

 

昔と比べて高度な情報社会となった現代では、以前と比べて多くの情報を集めることが容易になりました。多くの人と関わることも出来るようになりました。

それが幸福につながる人ばかりならいいのでしょうけれども、現実はそうでもありません。人間集まれば意図せずとも優劣を争うことになります。勝てば嬉しく、負ければ悲しいです。

SNSは承認欲求を満たすのにうってつけの媒体なのです。それは多くの人に自己の存在を主張しながら、自分にとって都合のいいものを排斥するという行為が誰でも可能な場だからです。他者の承認を受けるというのは気持ちのいい行為だからこそ、昔の人は所属の集団で上を目指すことに躍起になっていました。現代では、そんな行為をせずとも簡単に承認されることができます。多くの人は楽な方に楽な方にと流される事が多いです。そんななかで一体誰が苦労して同じ快感を味わおうとするのでしょうか。

現代の若者が出世に興味をもたないとはいわれますが、SNSの台頭で魅力が減ったというのも一つの理由なのではないかと自分は考えます。

 

 

逆に、情報化社会によって自己肯定感は育ちにくい環境が整えられることとなりました。比較対象が増えたことによって、肯定されるという機会が減ったからです。

以前までは狭いコミュニティ内での順位付けがなされていたため、AがダメでもBはいい、BもダメでもCなら……というようにどこかしらいいところを見つけて褒める、肯定するということが為されていました。しかし今は、誰々よりもBはよくてももっと出来る子がいると、さらに上と比較することが容易になってしまいました。

自己肯定感はこれまでの生き方に大きく左右されるものです。土台がしっかりしてれば、自力で修正も出来るかもしれませんが、そもそも土台がまともなら自己肯定感は低くなりません。後天的に身に着けるのは、自覚していないとまず無理でしょう。

 

 

なら、承認欲求で自己肯定感を育てればいいのではないかと思う人もいるでしょうが、それもまた難しいものです。承認欲求を満たす方法にも、能力と環境があります。能力は自らの技術に対する称賛ですが、環境は自らの手にするモノに対する羨望です。どちらでも承認欲求は満たせますが、自分である必要性は無いという無価値感がつきまといます。

また、行動しないと称賛されることは無いという、承認の理由づけも行われるため真に自己肯定感を育てられているのかというと疑問が残ります。

 

 

それでは、自己肯定感が低いとどうなのかといいますと、自分を肯定できない為、卑屈になります。承認されない、称賛を受けるに値しない、他人は信用ならないとどんどん排他的になります。お気づきの方もいるかと思いますが、自分自身の事です。

 

自分は他人の褌で相撲を取るような奴らが嫌いです。別にそいつらの功績ではないのに、さも自分がすごいと勘違いしてる奴らを見るとムカつきます。

ただこれも、上手に承認欲求を満たせる奴らに対する僻みとも言えるのでしょう。

 

 

じゃあ、どんな人が承認欲求と自己肯定感のバランスがいいのかと言いますと、芯がしっかりとありながらも、他人の事を受け入れる余裕のある人だと思います。理想的な大人ですので、いつかは自分もそうなれたらいいなと思っていますが、まあ難しいでしょうね。

 

悲しいかな自己肯定感の低い大人が自己肯定できる子供の成育ができるとは思えないので、これからどんどん可愛くない子供が増えるのかと思うと気落ちします。

褒めるところは褒める、叱るところは叱るとはっきりできるのが子供にとっていい成育環境なんでしょうけれども、実際のところは真逆に進んでいるのでこれからの子供の未来が自分は不安でなりません。

 

 

いつもの事なのであれですが、見切り発車で文章を書き始めるとどうにも落としどころを見失うのが自分のよろしくない処ですね。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

恋愛と結婚、擬似恋愛の関係 その2

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

前回の記事の続きを書いていきたいと思います。

にしても、私事で申し訳ないのですがもの凄く気分が乗らない。

今日の午前中には桜の開花速報が出され、外は超快晴。春の陽気で眠気が押し寄せてきます。それでも、脳の容量が少ない俺は書かざるをえません。忘れっぽいので。こういうところが自分は嫌いです。

 

 

さて、前回は恋愛と結婚の対象の違いについて書かせてもらいましたが、今回はそこに擬似恋愛の要素も含めて書かせてもらうこととします。 

 

前回から出ているこの擬似恋愛という言葉、どういうものを含むか多分皆様分からないですよね。

ここでは、恋愛小説漫画アニメなどの”2次元媒体”、レンタル彼女キャバクラヘルスなどの性風俗産業”、それらの中間層に位置すると考えている”アイドルや俳優等への恋慕”を指すつもりでいます。あくまで、定義分けのために呼称しているので、実際そのような言葉を使うことは無いのではないかと思います。

それらと恋愛や結婚を比較するのも烏滸がましいと思う人もいるかと思いますが、まあそこは別の人間ということで、見世物でも見るような感じで読み進めていってもらえたら幸いです。

 

 

擬似恋愛ですが、昔と違って今ではそこまで受け入れがたい要素ではないと私は思っています。というのも、以前は少数派であった価値観も現代はSNSなどの発展によって同じ価値観を共有する相手を見つけるのが容易になったからです。

 

先ほど挙げた3要素を同じ括りにしないでほしいと憤る人もいるでしょうけれども、傍から見れば大差ありません。本人がどう思っていようと、所詮は手に入らないものを追いつづけようとしている奴らです。どれだけ相手を望もうとも、相手はあなたなどどうとも思っていないというのが真理です。

擬似恋愛と自分が呼んでいるものは、往々にして”独善的な感情の動き”です。恋愛や結婚との最大の違いがこれだと、自分は思っています。

 

しかし、”独善的な感情の動き”でしかない擬似恋愛にも利点があります。というか、独善的であるということ自体が最大の利点となります。

それは、”恋愛の綺麗な部分、美味しい部分だけを楽しむことができる”というものです。

恋愛も結婚も当然ながら一人で出来る行為ではありません。かならず相手というものは存在しています。しかし、どこまでいっても相手は別の人間、完全に理解しあうなどということは叶いません。そこまでの過程に擦れ違いもあり、傷つくこともあるでしょう。それも楽しめる人ならいいでしょうけれども、現実は違います。自分なんかは、そんな面倒くさいことをしなければならないなら相手なんか必要ないと思います。

そういう人のニーズに当てはまるのが、擬似恋愛という要素です。

 

 

どういった時に人は傷つくのかというと、多分自分の理想が適えられなかった時です。擬似恋愛にはそんな心配はありません。所詮、自分の実生活との関係が深くないところで起こったことです。

好きな人、キャラクターに想定外の事が起こって感情を昂ぶらせ思わぬ行動を取る人もしばし現れますが、正直それもよく分からないんですよね。何がその人をそこまで衝き動かすのでしょう。

 

自分が恋愛に求めているのは、主に性欲を満たすことだけです。デートや日々の連絡なんかは、面倒ではあるが関係を維持するために必要な作業だと考えています。当然自分が恋愛していることで幸福を感じるようなことはあまりありません。

そして、相手がいる事ですから思わぬところで費用や時間、ストレスなんかが生まれます。「デートがしたい」「今すぐ会いたい」「なんで連絡くれないの」などは言われる事が容易に想像できます。相手個人に対するこだわりは殆ど無いので、その時の条件に適した方法を選ぶことが総じて合理的となります。

 

自分の場合は、恋愛のときめきは2次元媒体によって満たし、肉欲の解消は性風俗で満たします。どうでもいい話になりますが、自分は恋愛を扱った少女漫画は好きです。純粋でキラキラしてる恋愛が描かれているのがいいと思います。

 

デートをするということ一つとっても、計画実行改善のサイクルを回す必要があります。そこでは思わぬハプニングなんかもあるでしょう。でも、二次元媒体は違います。前もって選択されたルートを追想だけです。そこに予定が狂った時に起きる苛立ちなどというものは存在しません。

性行為にしても同じです。上手にお膳立てした挙句、不確実で手に入るのは一時的な快楽です。それも性風俗であればお金を払えば確実に行為が可能です。美は一過性の変動資産だと前回書きましたが、基本的には関係が継続して下がることはあれども上がることはありません。一番効率よく楽しむ方法は、その時だけ購入するという方法です。

 

 

また、自由恋愛主義の拡大と性風俗産業の大衆化が合わさったことで、そもそも非処女である場合、性風俗産業の経験があるのかの判断が困難となっています。確認してみれば分かることかもしれませんが、あくまで自己申告ですから信用できるのかは微妙なところです。判別したい要素があるのに、判別する手段が無い場合にとれる手段は、判別を諦め手に取るか判別できないものは手にしないかのどちらかです。

 

ここまでで相当屑な事を言っているのは承知ですが、自分は鬼ではありません。自分の時間を重要であるならば、その人の時間もまた重要であるということを重々理解しています。失礼承知ですが女性の場合、時間がそのまま資産価値に繋がります。結婚を考えれない相手との恋愛は、お互いに時間とお金の浪費をしているだけにしか思えません。だからこそ、恋愛というものがあまり好きになれません。

前回記した条件を満たす人が現れたなら結婚したいと思うのかもしれません。でも、結婚しない方がお互いにとって幸せなんだろうなと思っています。

 

 

うだうだと言い訳じみた言葉を並べてきましたが、考え方の度合いは違えどもこういう考え方の人は一定数はいると思っています。巷で時々話される「どうして若者は結婚しないのか」みたいな問題も結局この記事と同じようなことを要因として挙げていることも多いですし。

落としどころがよく分からなくなってきたので、この辺で〆ることにしますが、時代の変化に適応して人の考え、行動なんかは変化するものなのでどんな考えの人がいてもいいと思います。恋愛することで幸せになれると思うならすればいいし、思えないならしなくてもいい。皆がそういう風に考えることができる世の中になってくれる事を切に願います。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

恋愛と結婚、擬似恋愛の関係 その1

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

 

今回は恋人と結婚、擬似恋愛ということをテーマにして書いていきたいと思います。

今現在、自分の私生活において、とてもタイムリーな話題です。

 

そもそも人間嫌いなお前が恋人などの相手を欲しいと思うのかと考える人も居そうですので、先に断言しておきましょう。

そのような相手自体は、欲しいです。

ただ、自分に他者との共同生活に関する適性は無く、また恋心は一時的な欲求なのを理解しているので適時別の方法で発散しています。文章に直すというのも、その方法の一つです。

 

前置きとして書きますが、自分にとっての恋人と結婚相手というのは同じものではありません。

恋人から結婚相手にというのが望ましいとは思っていますが、それは自分の場合難しいだろうなと考えています。というのも、かなり疑り深く嫉妬深い性格かつ飽き性で思考が二転三転するからです。こう書いてみるとくっそ迷惑な奴ですね。

そういうのもあり、恋愛結婚に至れる人達のことは浅ましくも羨ましいと感じます。人間性にも大きな問題は無く、損得勘定をどけて考えられることのなんと素晴らしいことでしょう。

 

とりあえず、ここからは恋愛と結婚、擬似恋愛の関係に対する認識を説明していきたいと思います。この記事は、気持ちこれまでより長くなりそうな気がします。

 

 

まず、最初に断っておきたいのが、自分は女性の顔立ちにこだわりが無いということです。正確にはこだわりが無いというか、こだわれないでしょうか。女性の顔立ちの良し悪しというものがイマイチよくわからないのです。上位20%と下位20%くらいは分かるのですが、中間層はよくわかりません。山田花子はブスとか言われてますが、全然ブスだとは感じません。

 

なら、恋愛対象と結婚対象をどこで区別しているのかというと、以下の3つの事柄になります。

1つ目が”金銭感覚が問題ない”ことで、2つ目は”相手の存在がストレスにならない”こと、3つ目は”処女性の有無”です。

自己紹介の記事でも言いましたが、自分は処女厨ですので3つ目の事柄は譲るつもりはよっぽどでなければありません。

 

3つの事全てに密接に関連しているのが”お金の重要性”です。

容姿の優劣が関係ないというのもこれに関係しています。どうせ長年一緒に居たら劣化していくものですし。美は女性に与えられた一過性の変動資産だと自分は考えています。そんなものにこだわる位なら、内面を重視したいと思います。

 

ですので結婚に関しては容姿の優劣はあまり関係ないと思っています。身長の高低も顔立ちの良し悪しも身体の肉付きもあまり関係ありません。

ただし、デブは別です。デブなんて不摂生が体に表れてる典型的な例です。自己管理もできない人は人間的に問題がある。と人間的に問題がある奴が断言します(笑)

しかし、ぽっちゃりさんはその時のコンディションにもよるかと思いますので別の話です。

 

まず、前提条件として自分は家庭内の男女の立場についてはかなり昔風な考え方をしていますので、結婚したなら家計は基本的に妻となった人に一任するつもりでいます。お金の管理苦手ではないですが、結婚とはそういうものだと考えていますので任せるつもりです。しかし同時に、生きてく上で万能なものはお金だと考えていますのでそれを預けるに値する人を望んでいます。それらが上に挙げた3つの事柄を重要視するということに繋がります。

 

 

1つ目の”金銭感覚が問題ない”ということですが、自己の収入を預ける相手の金銭感覚に問題があると貯蓄どころか負債が膨らむことが考えられます。基本的に減少を続ける変動資産の人生を抱えた挙句、生活が豊かにならないならその関係における男側のメリットはどこにあるのでしょう。

別に彼女であれば自分で稼いだお金をどう使おうが何も言うつもりはありません。赤の他人ですから、そこまで干渉するつもりもありません。しかし、共同の生活を送るとなったら話は別です。ある程度の節制はしてもらうつもりです。三食もやしでとか極端なことを言うつもりはないですが、女同士の金銭によるマウントの取り合いの舞台からは下りて貰うつもりです。具体的にはブランド物や海外旅行、エステなんかは遠慮したいものです。

 

 

話を2つ目の”相手の存在がストレスにならない”ということに移します。これ自体は特別なことを言っているとは思いませんが、ここでもお金は関係しています。

皆さんは、ストレス経費という言葉に聞き覚えはあるでしょうか。どこで見たのかは忘れましたが、ストレスと出費は相関関係にあるというようなことを説明した言葉です。他者と一緒にいるという状況がかなりのストレスとなりやすい自分は、バイトをしていた時は買い食いや本の大人買いなどで細かい出費が膨らんでいました。

 

さて、結婚生活はただでさえ他人との共同生活の上で成り立っているものです。収入は妻に一任するつもりで、手元には限られたお金があるのみ。ストレスはどこに向かうでしょう。行き場を無くしたストレスは、まず間違いなく同居人である妻に向かいます。自分としても正直そんなことはしたくないので、ストレスを持ちこまない人が望ましいのです。

別居婚でいいじゃないと思う人もいるかもしれないが、正直婚姻関係である利点が一切わからないので多分今後考えることもないでしょう。

 

彼女ができても関係が続かない要因の一つは間違いなくこれでしょうね。恋人からの連絡、恋人の行動一つ一つにストレスを感じ、ストレス源は排除すべきという思考が大変よろしくないんでしょう。しかし、自他問わず人間を変えるのは簡単なことではないですから。

 

 

3つめの”処女性の有無”ですが、これは嗜好と思考、両面からのものになります。処女厨とかキモチワルイと思う人がいてもそれはしょうがないのかなと思います。自分自身でもどうかしてるとは思いますし。

では、なぜ処女であるということにこだわるのかというと、それがその人の生き方そのものだと考えているからです。

 

基本的に他者と望んで性行為に及んだということは、それほどまでに好きになったが相手がいるということに他ならない。だがしかし、仮に今恋人としてその相手と寝台を共にしているとして、その相手との関係は無かったことになるのかというと絶対にならなく、相手を振ったもしくは相手に振られたという情報は必ずある。その前提が存在する時点で無条件に信頼できるものではないと考えるからです。

好きでもない相手と同衾したことがあるというのは、それこそ問題でしょう。自分以外とも条件が合えば行為をすることに抵抗が無いということに他なりません。どこに信頼できる要素があるんでしょうか。

ただ、こちらのパターンは個人的には好意的に見れる部分もあります。それは自分の容姿がお金に変えられること、自分が資産であるということ自体は理解している賢い女性であるということです。結婚相手としては一番御免こうむりたい相手ですけれども。

ただ、性的暴行で処女で無くなった女性は可哀想ですし、本人に罪はないのであまり拒絶したくはないですね。進んで選ぶということはしたくないですけれども。

 

また、仮に結婚したとして子供を持つということはするつもりがないので、他者と性行為を行おうとしない人が望ましいというのもあります。

総じて浮気のリスクを抑えたいというのが思考からの理由となります。

 

嗜好はまあ理論立てて説明するほどの事でもないので、他人のお手付きを養うつもりは無いということでまとめさせてもらいます。そんな慈善事業は好きな人がやればいいんですよ。

 

しかしまあ、”処女は最高の嫁入り道具”って価値観が廃れたのは何とも時代の移り変わりを感じるものですね。自由恋愛主義と女性の社会進出が合わさって廃れた価値観ですが、果たして廃れさせてよかったものなのか。

 

 

ここまでで、恋愛と結婚の対象の違いを明らかにしましたので、次の記事でさらに擬似恋愛とも関連付けて話を進めたいと思います。

 

 

しかしながら長くなるかなと思ってはいましたが、やはりというかなんというか。

筆が遅いのと、書き始めてから内容を文章としてまとめているのが合わさり、2時間以上座っているのですがずっと同じ体勢だと腰が痛くなりますね。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

コミュ障を自称する理由 その2

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

前回の記事の続きを 書いていきたいと思います。

 

 

前回の記事では次のような事を書かせていただきました。

 

コミュ障を自称する人にも、二つのグループがあり、

それは”本心から言っている人達””あえて言っている人達”である。

そして、前者はどのような思考からこのような発言に至り、どのような対応が好ましいのか。

というようなことです。

 

 

今回は、前回触れなかった”あえて言っている人達”の思考、意図についてふれていきたいと思います。 

 

あくまで、自分のタイプの思考以外は知識と想定に基づいて記しますので、誰にでもあてはまることでは無いことはご了承ください。

 

 

あえて言っている人達は、大きく2種類に分類できるかと思います。

具体的には、”コミュ障であることを保険とする人達””そもそもコミュニケーションを望んでいない人達”の2種類です。多分、なんとなく分かるっていう人も全く理解できないっていうひともいるんじゃないでしょうか。拙く情報が足りないと思うかもしれませんが、それぞれ紹介していきます。

 

 

さて、前者の”コミュ障であることを保険とする人達”ですが、自称コミュ障の半分かそれ以上はここに該当するんじゃないかと思っています。

心理としては、コミュニケーションに対するハードルを下げたい、コミュニケーションをうまく取れなかった時の自己正当化の為に、所属の集団内での役割がそんな感じというようなものがあげられるのではないでしょうか。最後のだけもの凄くフワッとしていますが許してください。集団にあまり帰属していない為、適当な文に言語化できませんでした。これらの心理は、ぶっちゃけ自己保身からきているものです。

「コミュ障だから仕方ない」そう自己暗示をかけています。

 

ですので、この類の人達は、コミュニケーションがうまいとは言えないでしょう。話したがり屋もあまり話したくない人も混ざっていますので、会話のバランスがどちらかに偏りがちです。コミュニケーションが好きであるにも関わらず、コミュ障であるということに甘んじて改善は余り考えないので、当然と言えば当然でしょうけれども。

ちなみに自分は、前後2つのハイブリットです。良いとこどりです。悪いところを寄せ集めてるのかもしれません。

 

 

次に後者の”そもそもコミュニケーションを望んでいない人達”ですが、人間嫌いの人なんかはここに当てはまる事が多いのではないかと思います。ゆとり世代やさとり世代と呼ばれている世代にも、少し当てはまることかもしれません。自分はゆとり世代のど真ん中です。だから性根が腐っていると開き直っておきましょう(笑)

心理としては、必要以上のコミュニケーションを取りたくないということが根幹にあります。

資本主義の国に生きる日本人の生活は、お金とは切っても切れないものがあります。そのため、多くの人たちは会社という集団に所属して日々お金を稼いでいます。その中には、好ましい人もいれば嫌いな人もいるでしょう。しかし、人間嫌いの人は他者と交流すること自体がストレスになります。それでも、円滑に仕事を回す為にコミュニケーションを取らざるをえません。そこで、「コミュ障である」と伝えることで、暗に相手を拒絶します。相手に話をする権利を押し付けます。自己開示をしない為に、相手に話をさせます。当人たちはコミュニケーションを取りたいと思っていないので、ペースを握られてもあまり気にしません。反応が薄いと判断されて撤退された場合でも気にしていません。

 

自論として、多くの人は自分の事を話したい、自分の事を知って貰いたいという自己承認欲求を抱えており、自分に興味を持って良くしてくれる人には、敵意は抱きにくい。ならば、そこを満たしてやればいい。興味を持っているように見せかけて、話したいことを話させてやればいい。そう考えてコミュニケーションをしています。

ぶっちゃけ他人のあくる日の行動とか嗜好なんて、こっちからしてみればどうでもいいです。パッと見円満な関係を築ければそれでいいのです。

当然、そんなの見透かしているというような人も出てきますが、それはそれで問題ないのです。嫌いな奴とコミュニケーションを取りたがる奴なんて極稀ですから。結果オーライです。

太鼓持ちみたいなことをしているため、好かれることも稀にありますが、それはなんだかんだ困るかもしれません。めんどくさいです。ただ、集団にとけこむにあたってある程度必要なことだから、仕方ありません。

 

 

これらのタイプに対する対応をどうするべきかというのは、正直よく分かりません。

ただ、あまり交流を深めない方がいいのかなと思わないでもないです。

というのも、こういったタイプの人達は自己承認欲求とこだわりが無駄に肥大化しているように思われますので、結構理由のわからないところで怒り出したりすると考えられます。

また、先ほども述べたようにコミュニケーションが一方的になりがちなので、適切な対応と寛容な心がないとストレスが溜まるでしょう。

そういうやつらとも交流したいんだ、と言うような奇特な人ならいいと思いますが、わざわざそんな奴らに構う必要あるのかと自分なんかは思いますけれども。

 

 

前回と今回でコミュ障を自称する理由について少しでも分かっていただけたでしょうか。分かっていただけたなら幸いです。

しかし、深くコミュニケーションに苦手意識を持っている人の多くは、そもそも「コミュ障」であるという告白すらできないのではないかと思います。仲間はずれは良くないことであるなどと月並みな言葉を並べるつもりはありませんが、余り話したことがない人と話してみるのも面白いかもしれませんね。

なんにせよ、コミュニケーションは一人で行っているのではないということを忘れないようにしたいものですね。いったいどの口がほざくのでしょう(笑)

 

 

前回に比べて全体的にフワッとして要領を得ない感じになってしまいましたが、一日空いたので大目に見てください。物覚えが悪い阿呆なので、一日でも思考が霧散するには十分な期間なのです。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

コミュ障を自称する理由 その1

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

 

まっとうな社会生活を送るうえでは、色々な人と対話する必要がありますよね。家族にしろ、地域にしろ、会社にしろ会話はある程度すると思います。しかし、コミュニケーションが得意な人もいれば、苦手な人もいますよね。

さて、人と会話をしている時に、

「俺、コミュ障だからさ……」「私コミュニケーション苦手で……」

こういった言葉を言われた経験や逆に言った経験、皆さんもあるんじゃないでしょうか。

(知らないんだけど……)って思った方は、いい人に囲まれてきた、もしくは相手に警戒されているかのどちらかだと思います。

 

コミュ障を自称する人にも、二つのグループがあります。

それは”本心から言っている人達””あえて言っている人達”です。

コミュ障なんだからみんな一緒だろうと考えるのは早計です。コミュ障も一枚岩ではないのです(笑)

本心から言っている人には、優しくしてあげてください。逆に、あえて言っている人には、あまり関わらない方がいいです。そう言うことが何かしらをその人にもたらすから言っているので、それだけで打算的なのがわかります。その両グループの心理を説明していきます。

 

あくまで、自分の思考以外は知識と想定に基づいて記しますので、誰にでもあてはまることでは無いことはご了承ください。

 

  

まず、本心から言っている人の心理から取り上げることとします。

本心から言っている人は、優しい人、気が弱い人など人当たりがいい人が多いでしょう。そういった人たちは親和欲求が高く、皆さんと仲良くなりたい、でも仲良くできるか不安であるという人が大部分を占めると思います。コミュニケーションの作法が分からないからこういう発言をしているので、当人らに悪意や害意はないですし、一生懸命コミュニケーションを取ろうとしているので助けてあげて欲しいものですね。

 

助けてあげるといっても、特別なことをする必要はないと思います。とりあえず次の3つを少し気にしてあげればいいのではないでしょうか。

1つ目は、”まくしたてない”ということです。

コミュニケーションが得意な人は、話をしながらその情報を整理、言語化するのが早いですのでつい話を先へ先へと進めてしまうかと思います。しかし、苦手な人は情報を整理、言語化した後に推敲の段階が入ることがあります。発言の内容はできたけれども、それで失礼が無いかを確認するということですね。その間に、急かされると萎縮、緊張してしまいさらに次の発言までに時間がかかることとなります。急かさないで余裕をもって聞いてあげてください。

2つ目は、”会話の方向性をある程度決めてあげる”ということです。

コミュニケーションが得意な人は、自分の好きなように話を進めることができます。そもそもそのエピソードを複数回話していたりして、必要な情報と不要な情報の取り捨て選択も終わっていることも多いでしょう。しかし、苦手な人はそもそも対話に対する経験が足りない為、自分から始めようとした話題に必要な情報、求められる情報が定まっていない場合があります。それをどこが気になったかを教える形で、聞いてあげてください。

3つ目は、”話を聞いていることを分かるようにつたえる”ということです。

コミュニケーションに苦手意識を持つようになったのには間違いなく理由があります。苦手な人は相手の顔色を見ながら話を進めているので、反応が見られないとどんどん不安感を募らせていきます。ですので、不安感を持たせないように少し気を回してあげて欲しいと思うのです。うなずく、あいづちをいれる、その程度の事で構いません。ただ、少しオーバー気味にするといいかもしれません。周りを見る余裕がないと、反応が小さいと目に入らなくなりますので。

 

冗長な文で書き連ねましたが、コミュニケーションの基本を意識すればいいと思います。まさかコミュニケーション上手だと思っている人がこの程度の事も出来ないなんてことは無いですよね(笑)これはまあ、冗談です。しかし、対話はキャッチボールのようなものですので、一方的にしててもどちらも楽しむことは難しいでしょう。相手がいるということを心掛けたいものです。

 

 

ここまで書いてきましたが、自分自身はどうなのかというとこちらのグループではありません(笑)いえ、コミュニケーションが得意なわけではないのですが、決定的にこちらとは違うところがあるのです。それが、一生懸命コミュニケーションを取ろうとしているかということです。自分は別に必要以上のコミュニケーションを取りたいとも思いませんし、そもそもコミュニケーションに目的がありません。

 

意外と長くなってしまいましたので、そこらへんのことは次の記事で触れていきたいと思います。こんなに細かく記事を分割する必要があるのか分かりませんが、あんまり長く書いても読むのもしんどいでしょうし、慣れるまで適度に分割することにします。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。