コミュ障を自称する理由 その2
皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。
前回の記事の続きを 書いていきたいと思います。
前回の記事では次のような事を書かせていただきました。
コミュ障を自称する人にも、二つのグループがあり、
それは”本心から言っている人達”と”あえて言っている人達”である。
そして、前者はどのような思考からこのような発言に至り、どのような対応が好ましいのか。
というようなことです。
今回は、前回触れなかった”あえて言っている人達”の思考、意図についてふれていきたいと思います。
あくまで、自分のタイプの思考以外は知識と想定に基づいて記しますので、誰にでもあてはまることでは無いことはご了承ください。
あえて言っている人達は、大きく2種類に分類できるかと思います。
具体的には、”コミュ障であることを保険とする人達”と”そもそもコミュニケーションを望んでいない人達”の2種類です。多分、なんとなく分かるっていう人も全く理解できないっていうひともいるんじゃないでしょうか。拙く情報が足りないと思うかもしれませんが、それぞれ紹介していきます。
さて、前者の”コミュ障であることを保険とする人達”ですが、自称コミュ障の半分かそれ以上はここに該当するんじゃないかと思っています。
心理としては、コミュニケーションに対するハードルを下げたい、コミュニケーションをうまく取れなかった時の自己正当化の為に、所属の集団内での役割がそんな感じというようなものがあげられるのではないでしょうか。最後のだけもの凄くフワッとしていますが許してください。集団にあまり帰属していない為、適当な文に言語化できませんでした。これらの心理は、ぶっちゃけ自己保身からきているものです。
「コミュ障だから仕方ない」そう自己暗示をかけています。
ですので、この類の人達は、コミュニケーションがうまいとは言えないでしょう。話したがり屋もあまり話したくない人も混ざっていますので、会話のバランスがどちらかに偏りがちです。コミュニケーションが好きであるにも関わらず、コミュ障であるということに甘んじて改善は余り考えないので、当然と言えば当然でしょうけれども。
ちなみに自分は、前後2つのハイブリットです。良いとこどりです。悪いところを寄せ集めてるのかもしれません。
次に後者の”そもそもコミュニケーションを望んでいない人達”ですが、人間嫌いの人なんかはここに当てはまる事が多いのではないかと思います。ゆとり世代やさとり世代と呼ばれている世代にも、少し当てはまることかもしれません。自分はゆとり世代のど真ん中です。だから性根が腐っていると開き直っておきましょう(笑)
心理としては、必要以上のコミュニケーションを取りたくないということが根幹にあります。
資本主義の国に生きる日本人の生活は、お金とは切っても切れないものがあります。そのため、多くの人たちは会社という集団に所属して日々お金を稼いでいます。その中には、好ましい人もいれば嫌いな人もいるでしょう。しかし、人間嫌いの人は他者と交流すること自体がストレスになります。それでも、円滑に仕事を回す為にコミュニケーションを取らざるをえません。そこで、「コミュ障である」と伝えることで、暗に相手を拒絶します。相手に話をする権利を押し付けます。自己開示をしない為に、相手に話をさせます。当人たちはコミュニケーションを取りたいと思っていないので、ペースを握られてもあまり気にしません。反応が薄いと判断されて撤退された場合でも気にしていません。
自論として、多くの人は自分の事を話したい、自分の事を知って貰いたいという自己承認欲求を抱えており、自分に興味を持って良くしてくれる人には、敵意は抱きにくい。ならば、そこを満たしてやればいい。興味を持っているように見せかけて、話したいことを話させてやればいい。そう考えてコミュニケーションをしています。
ぶっちゃけ他人のあくる日の行動とか嗜好なんて、こっちからしてみればどうでもいいです。パッと見円満な関係を築ければそれでいいのです。
当然、そんなの見透かしているというような人も出てきますが、それはそれで問題ないのです。嫌いな奴とコミュニケーションを取りたがる奴なんて極稀ですから。結果オーライです。
太鼓持ちみたいなことをしているため、好かれることも稀にありますが、それはなんだかんだ困るかもしれません。めんどくさいです。ただ、集団にとけこむにあたってある程度必要なことだから、仕方ありません。
これらのタイプに対する対応をどうするべきかというのは、正直よく分かりません。
ただ、あまり交流を深めない方がいいのかなと思わないでもないです。
というのも、こういったタイプの人達は自己承認欲求とこだわりが無駄に肥大化しているように思われますので、結構理由のわからないところで怒り出したりすると考えられます。
また、先ほども述べたようにコミュニケーションが一方的になりがちなので、適切な対応と寛容な心がないとストレスが溜まるでしょう。
そういうやつらとも交流したいんだ、と言うような奇特な人ならいいと思いますが、わざわざそんな奴らに構う必要あるのかと自分なんかは思いますけれども。
前回と今回でコミュ障を自称する理由について少しでも分かっていただけたでしょうか。分かっていただけたなら幸いです。
しかし、深くコミュニケーションに苦手意識を持っている人の多くは、そもそも「コミュ障」であるという告白すらできないのではないかと思います。仲間はずれは良くないことであるなどと月並みな言葉を並べるつもりはありませんが、余り話したことがない人と話してみるのも面白いかもしれませんね。
なんにせよ、コミュニケーションは一人で行っているのではないということを忘れないようにしたいものですね。いったいどの口がほざくのでしょう(笑)
前回に比べて全体的にフワッとして要領を得ない感じになってしまいましたが、一日空いたので大目に見てください。物覚えが悪い阿呆なので、一日でも思考が霧散するには十分な期間なのです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。