反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

自殺の是非

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

 

皆さんは自殺と聞いてどんなイメージを持つでしょうか。

暗い、負け組、もったいないなど、あまりいいことであるイメージはもたないのではないでしょうか。

しかし、自分は自殺という行為にあまり悪いイメージはありません。推奨するようなことはしませんが、何としても引き止めるようなつもりは毛頭ありません。

今回は、自殺について書いていきたいと思います。

 

自分の身の回りの人が自殺を企てていると知ったら、過半数の人がその人の考えを改めさせようとするのではないでしょうか。しかし、自分は先にも書いた通り無理に引き止めるようなことはしません。あくまでどういう感情になるか伝えて終わりにするつもりです。薄情に思うかもしれませんが、多分変わることは無いでしょう。

 

そもそも、現代人は死というものを嫌悪し過ぎていると考えてしまいます。生きるということは、死ぬということと絶対に切り離すことはできません。それなのに、どうして生きるということだけを重視するのでしょう。

生きるということは変化の継続です。その揺らぎを楽しめる人もいれば、揺らぎを苦に思う人がいるのも不思議なことではありません。どうして、その揺らぎが止まるだけの行為である死を嫌悪するのでしょうか。

 

 

人が死ぬという事象は、感情の揺らぎがおこり易いものです。揺らぎ方や揺らぐ範囲は人によって違いますが、殆どの人は死という事象で何かしら感情が揺らぐことだと思います。

ではなぜ、死というものに対面したら感情が揺れ動くのか。その答えは多分、死というものが生物とは切っても切り離せない事象だからです。しかも、それを見つめて自分なりの答えを探すということは、強い恐怖と向き合うことに他なりません。知れば知るほど、逃れられないことを理解するのだから当然です。だから、多くの人は死というものの存在を見なかったことにしたがります。なので、それを突然に目の前に突き付けられることになる”自殺”ということも嫌悪します。

 

 

そんなつもりじゃない、自殺する人の事を思ってと言う人も多いのではないかと思いますが、それを相手に押し付けることは酷じゃないでしょうか。

身内、友人といえども、自殺志願者とは別の個体です。つまりは、他人なのです。他人の意思を抑圧して、元の幸福とは思えていない状況に引き戻すのは本当にいいことなのでしょうか。

引き戻した後すぐに幸福だと思える状況になるとは到底思えません。そこで変化しなければ幸福でない状況を長く味わっただけです。前回自殺を志願した段階で決行できていた方が幸福であったとも考えることができます。

 

 

死んだらこれから楽しいことがあるかもしれないのにもったいないじゃないか、と言う人もいるかもしれません。というか、これを言う人はかもしれないなんて言い方はせずに、断定しそうですよね。全く根拠が無い状態でも。

しかし、楽しいことがあるから自殺を辞めるべきというのも、理由としてはあまり強いものとは言えないと思います。

人の命は不可逆です。生から死はあれども、死から生はありません。死んだら幸不幸の概念は必要無いし、それを知覚する主体はもうそこに存在していません。死んだら楽しめないというのは、死んだら苦労が無いということに他なりません。そこに何の問題があるのでしょうか。

 

生きてるだけで儲けもの、死んだら負けみたいなことをいう人もいるんじゃないでしょうか。はたして、それは本当なのでしょうか。

生きていなければ幸福にはなれないというのがこの発言の真意なのでしょうけれども、そもそも生きていて幸福だと感じていないから自殺を志願する人がいるわけです。志願者は、不確定な幸福を追い続けることに辛さを感じているのに、それを再度突き付けるというのはあまりにも酷いことなのではないでしょうか。

 

 

何が言いたいのかと聞かれそうですが、”自殺を抑止して幸福になったのは誰なのか”ということです。

志願者は環境が改善されたならば幸福になったといえるのかもしれませんが、そうでなかった場合は違います。だとしたら、幸福になったのは自殺を止めた人でしょう。自殺を止めた人は自分が幸福であるために、他人に不幸であることを強要しているのです。

何も考えずに自殺を思い留まるよう懇願するのは簡単です。しかし、決断をした人は自殺の意思決定を否定されているのです。思い留まった後に苦労するのは、志願者で止めた人ではありません。止めるのであればその後も手を貸してあげるべきなのではないでしょうか。それが、止めた人の責任でしょう。

自殺に限ったことではないですが、自分の行動の責任をとるという行為をしない人が今は多いと感じています。

 

 

自分自身も度々自殺願望が湧いてきますが、実行はいまだ出来ていません。というのも、どのラインからなら確実に即座に死ねるのかが分からないからです。今すぐ死のうなどと思うほどの切迫感が無いというのも要因ではありますが。

死ぬなら確実に死にたいですが、ブログなどではなかなか情報はありません。これは当たり前なのですが死人に口なしということで、死にきれなかった人の経験譚が多く目につきます。しかし、時間が経つにつれて生還例は蓄積されていきます。それがまた自殺を躊躇わせる要因として積み上がっていきます。

今より不自由になっても生きていたいとは自分は思わないので、確実に死ねる方法が無いというのが現在の私が生き続ける理由です。生きる事自体に執着はあまりありません。

 

 

自殺を抑止する必要がないのかというとそうではありません。自殺をする人は悪ではないが、自殺者を生む社会は悪だと思っているからです。自分の意思が存在するのに集団生活で自己を押し留める生活を余儀なくされる人間社会で、自殺者を0にするのはまず無理だと思います。しかし、自殺者の数を減らすことは出来るはずです。

時代情勢などの歴史的バックグラウンドなどもあるのは重々承知ですが自殺者の層が偏っているのであれば、何かしらその層に負担がかかっているのではないでしょうか。自殺者層の偏りが修正されていけば社会的安定に近づくと考えるのは安直かもしれませんが、全てが間違っているとは思いません。

生きている間に少しでも生きやすい世の中になっていく事を願っています。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。