反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

発言者と主張内容を関連付けて評価する事のおかしさ

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

近くのショップのビンゴ大会で珍しくビンゴだと思ったら、景品はぬいぐるみで自分らしいと落胆しました。消耗品か実用品が欲しかったです。

 

 

皆さんは、情報の正当性をどうやって評価していますか。

偉い人が言っているから正しい。嫌いな人が言っているから間違っている。

そのような判断基準で発言の正当性を評価している事あるんじゃないですか。

でも、本当に偉い人は正しいことしか言わず、嫌いな人の言う事は間違っているのでしょうか。

今回は、そんな感じの事を考えていきたいと思います。

 

 

まず、最初に断っておかなければならないこととして、別に自分は知識が無い事を悪と断ずるつもりは無いという事です。人はそれぞれ興味の分野が違います。何かの専門家であれ専門分野には精通していても、その時の大衆の流行に疎いという事は良く有ることでしょう。

知らないことは罪だと自分は思いません。しかし、知らないということを認識しない・認めないのは、罪であると言えるでしょう。思考することを放棄するなどもってのほかです。何のための脳味噌ですか。

 

分かりやすいように以下に例を挙げます。

偉い人がカラスは黄色であると言っても、大多数の人はそんなわけないと一蹴するでしょうし、生物学者が言ったとして同様の反応をするでしょう。ここで疑い無しに信用する人は、発言者の信者かカラスを誤認している人です。

次に、偉い人がカラスにも白色個体が存在すると言ったのならばどうでしょうか。これも大多数は同様にそんなわけないと一蹴するでしょう。では、生物学者が同じ事をいった場合はどうでしょうか。

同じ発言ですが、信用性が高まりましたよね。これが発言者の権威で発現内容の信憑性が上下した状態です。

今度は、生物学者がカラスに白色の個体は存在しないと主張し、偉い人はカラスに白色の個体は存在すると主張しているとしましょうか。これは人によってどっちが正しいかの判断が分かれるのではないでしょうか。

発言者の権威をもってどちらが正しいと判断する人と自分の知識をもって支持する対象を決める人に分かれるかと思います。学者の発言だから正しいと判断した人は、発言者の権威を妄信した状態と言えるでしょう。

ちなみに、黄色いカラスは未だ未発見ですが、白いカラスは複数の発見例が上がっています。いるのだろうと思ってはいましたが、本当にいるとは驚きです。

 

権威と発言内容の正当性には直接的な関連はありません。偉い人でも学者でも、人間であることには変わりないので、嘘をついたり間違ったことを言う場合もあるわけです。犯罪者でも同様で、正しいことも真実もいう訳です。それじゃあどうやって物事判断すればいいと憤る人もいるかもしれませんが、発言内容の正当性だけを判断すればいいのです。判断するには知識が必要ですから考える事を習慣づければいいのです。

 

 

また、議論の場において「素人が口を出すな」「不細工だからだろ」「女は黙ってろ」みたいなレッテル貼りや人身攻撃を度々目にしますが、これもどうなのかと常々思っています。

というのも、これらを言った側は黙らせてやったと鼻高々でしょうけれども、この発言自体にその人の主張に対する反論が含まれていないからです。別に素人だろうと不細工だろうと女だろうと、発言する権利自体は平等です。あまりにも論旨を理解していない場合ならそれも致し方ない事かなと思いますが、自分にはこういった発言は主張に対する反論が見つからなかった事をごまかすための負け惜しみにしか思えません。

自論の正当性を理解しているならばそれに応じた返答を用意できるでしょうし、返答をしてしかるべきだと考えます。まあ、自分の姿を晒さずに発言できるから蔓延していると言われたらそうなのかもしれないとは思いますが、別にそれも正当化する理由にはなりえません。

 

 

情報化社会としてインターネット技術が発達し情報の発信が容易になったことで、情報の受け手の取り捨て能力とリテラシーが以前よりも求められるようになったはずですが、それを教える側は情報化社会に適応できているのか疑問を持つような人材が多いように感じています。

適応している人はインターネットを介した自己承認欲求の充足に躍起になって木乃伊取りが木乃伊になり、適応できていない人は冷めた目で見ながら自分達が劣っているのではないと自己弁護に躍起になる。まさに糞みたいな世の中です。

 

 

情報に触れる事が容易になった今だからこそ己を必要以上に大きく見せることを望まず、情報発信者と情報内容を混同しないように意識することの必要性を強く感じています。膨らみ過ぎた自意識は自己の過大評価と真実を見分けられない目しかもたらしません。もっと等身大の自分を見つめる時間を持つべきだと考えています。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。