反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

頭と心の不整合

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

前3回で自己紹介をしてきましたが、お読みいただけたでしょうか。

まあ読んでいなくとも、特別問題があるわけでもないので構いません。

 

 

さて、タイトルに沿ったお話をさせていただきたいと思います。

 

皆さんはどんなことが好きですか?スポーツをすることが好き。スポーツを見ることが好き。動物と触れ合うことが好き。動物を撮ることが好き。人によってそれぞれ違う好きなことがあると思います。俺は本を読む、公園巡りをする等、かなりの1人行動派です。

そして無職で時間を持て余しています。好きなことを好きなだけやれます。羨ましいでしょう(笑)

 

しかし、現実は違います。やりたいと思うだけで、行動にはなかなか移しません。というか、しんどくてなかなか移せません。それが今回の話になります。

 

 

 無職になる前は、無職期間好きなことを好きなだけ出来るから何しようかとワクワクしていましたが、今は毎日どうやって時間を潰そうかと悩んでいます。贅沢なことを言ってるのは重々承知の上ですが、自分としては重大な問題です。

 

もちろん明日はどんなことをしたいっていうのを考えることもあり、その時は多少気が晴れます。しかし、当日になってみると気分が重くなり考えたことが達成されることは余りありません。

 

 

どうしてこのような状態なのかというのは、多分ですが原因は2つあります。

1つ目は、”頭と心で必要なエネルギー量の計算が間違っている”ということ。

2つ目は、”そもそも日々を積み重ねることに対する意欲が薄い”ということ。

この2点が大まかな原因だと推測されます。

 

 

1つ目の原因から、詳細に説明していきたいと思います。

頭と心で必要なエネルギー量の計算が間違っていると言われても、多分ピンとこないですよね。

例を用いて説明します。それでも分かりにくかったらすみません。

まず、一人の子供を思い浮かべてください。その子にモノを渡していきます。

飴玉ならいっぱい持てますよね。袋菓子ならどうでしょう。牛乳パックならどうですか。米袋は持てますか。これらを持つのはそこそこの力が無ければ難しいですよね。普段なら楽々出来る事も、仕事終わりにするのはしんどいかもしれません。

人それぞれその時々によってキャパシティは違いますが、どうにも自分は心のキャパシティを測るのが苦手なのです。

 

やりたいことのキャパシティがオーバーした結果、行動に移すのが困難になり、その時出来る楽なことをするがために結果としてやりたいことだけが消化されずに積み上がっていく。まさに悪循環ですね。

さらには、やり始めたからにはある程度の成果を得なければならないという思い込みがあるがために、なおさら動き出しが鈍くなっています。

 

 

2つめの原因の説明に移りたいと思います。

そもそも日々を積み重ねることに対する意欲が薄いと言いましいたが、自分はあんまり生きるということに執心していないんですよね。やりたいことがあるからそのために生きるっていうようなものもなく、将来的にどうなっていたいという未来予想図も思い描けない。そこから発展して、別に今日これをやらないと絶対後悔するというような危機感を持ち合わせていません。発展でなく退化の可能性は大いにありますね。

まあ、死生観の話はまた別の機会にしたいと思います。

当事者意識が薄いため、結果としてやりたいという意欲が萎みやすいから、やらないということになります。

 

 

やりたいと考えてる事がいつでもできる環境にあるというのが無職の強みでありますが、それがあだとなり今やらなくても別にいつでもできるという考え方に移行するのが無職の欠点ですね。

これらは当人の心の持ち様、心情に依存した物ですので、無職が向いている人はそれでもいいのでしょうけども、自分みたいなやつには余り好ましいとは言えないんでしょうね。

 

積みゲーや平積みの本の消化や資格の勉強などやりたいと思うことは色々ありますが、結局楽な方に流されてネットサーフィンや動画視聴、ソーシャルゲームなどをして1日を過ごす。これが、現在の自分のルーチンワークと化しています。

現代は細切れの時間を潰す手段が数多く存在しており、それらは組み合わさることでいくらでも時間を奪うものに変化します。そのことを自覚しないと無駄な時間を過ごすことになります。おまえが言うなと思われるでしょうが、戒めを込めてここに記しておくことにします。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。