反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

自己紹介と人格形成歴 その2

皆さん、こんばんわ。このブログの筆者のやくひなです。

 

前回に引き続き、ここまでを振り返ってみることとします。

 

 

さて、小学校を無事卒業して中学生となり、部活というものが目の前に現れました。

帰宅部でもよかったのですが、科学部に入ることにしました。理由は至極単純なもので、一目惚れした女の子がその部活に入っていたからです。甘酸っぱい話ですね(笑)

この女の子は後々も俺の人生にたびたび関わってきます。いや、正しくは関わってくるというのは間違ってますね。勝手に振り回されるだけですから。名無しも何ですのでとりあえず、Y子としておきましょうか。

この女の子によって、自分好みの異性のタイプが確立します。そう、”黒髪””ロングヘアー”です。もの凄くどうでもいいですね。

 

 

この頃も、あまり考えて無かったのか、クラスも男女も問わず色んな人と仲良くなっていました。今では考えられないアグレッシブさで大変驚きます。

 

中学1年の夏頃だったか、深夜アニメにはまることとなりました。小学生の頃は母が生活習慣を管理していたのもあって夜更かしなどあまりしなかったのですが、離婚により管理者不在でどんどん生活リズムが乱れ、環境の変化もあって一気にオタクとして開花することになったのです。ちなみに、きっかけとなった作品は”魔法少女リリカルなのはStrikerS”で、このシリーズは今も気に入ってます。同時期に”蒼穹のファフナー”のCMをやってたのがなぜか印象に残っています。

うちには録画機器が存在しなかったため、深夜帯のアニメは当然のようにリアルタイム視聴となり、結果さらに生活リズムは崩れていきました。結果、当然ながら成績は落ちていきます。元から手放しに褒められるような成績はしていませんでしたが、5教科で230点前後の成績になりました。

 

中学2年の頃に、クラスメイトから”東方project”のことを耳にすることとなり、そこで立派な東方厨の完成です。同人CDが豊富なこともあって、結果J-POPなどから縁遠くなっていきます。

 

成績が悪いのはここまででも理解していただけたでしょうが、さらには素行も良いとは言い難かったのです。どうしようもないですね。

休日に父親が学校に来て頭を下げること数回、教師には危険人物としてマークされていたでしょうね。そのこともあり、弟からは”同じ中学にはおまえがいたから行かせてもらえなかった”などと言われたことが数度あります(笑)

 

冒頭の方で触れた、科学部の方がどうなったかというと3年にあがるころには除籍されてましたね。部費を滞納し続けたので、顧問から退部を薦められました。Y子が部活に来なくなった辺りで行かなくなったので全く気にしてませんが。

 

とりあえず高校進学となってどこの高校を選ぶかって段階で、なぜか”剣道部”の存在する近場の学校という選択方針を打ち上げました。はい、意味が分かりません。そのころ、”BAMBOO BLADE”という漫画に影響されたからなんですけれども。

結果、近場のスポーツ教育に力を入れてる高校に入学することとなります。

 

それはさておき、中学生活の3年でY子との関係がどう進展したかというと、友達以上にはなれませんでした。ヘタレでチキンだったので、メールでのアプローチ以外はほとんど仕掛けてなかったのです。本当にどうしようもないですね。

 

 

話を本筋に戻すとして、高校に無事入学し剣道部の見学に行って即日入部することに決めました。今思うとどうかしています。なお、一緒に見学に行った中学の友人たちは無事美術部に入部しました。英断です。

さて、剣道部は男女合わせて部員30人ほどでしたが、初心者は他に誰もいませんでした。何でも数年間いないとか。部活選び失敗です。

 

新入部員に対する可愛がりなのか何なのかは知りませんが、当然プライバシーは確立されずここでもひとつの思考を身に着けることとなります。

他人は信用すべきでない”ということです。過剰かとも思いますが、再三内緒話が漏洩する、自己の発言が曲解されるなどの事があればそう考えるようになるのも不思議ではないと思います。

 

高校生活は中学ほど書くことが多い訳でもないので大雑把に説明しますが、色々あってなぜか学年中に知れ渡ることになった俺の汚名は雪がれる事はありませんでした。男子にはからかわれ続け、多くの女子には毛嫌いされる。それを受け入れて道化を演ずる、そんな高校生活でした。

学校柄もあり多くの生徒と気質が合わないのも相まって、今も連絡を取るような友人はできませんでした。部活のこともあり、更に成績は落ちていき5教科で200点越えないこともざらにありました。ここでも問題を色々起こした為、いろんな教師に疎まれていたでしょう。

 

高校の次は大学となりますが、進学したいという意思もなく高卒で適当に就職してY子に結婚を前提としたお付き合いを求めようかと、阿呆のような事を真面目に考えていた坊主頭ですが、父親はどうにも進学させたかったらしく結局1校のAO入試を受けることで手を打ちました。結果合格してしまい私立のF欄大学に進学することとなりました。

 

部活を引退した後は殆ど顔を出すようなこともせず、卒業と同じく剣道も辞めました。

卒業後は部員との連絡を一切取っていません。向こうも気にしていないでしょう。

 

そして、Y子との関係がどうなったかと言いますとまた進展はありません。いや、もうここまで来ると笑えないですね。バレンタインチョコを貰ったり、近況を時たま話したりはありましたが、それ以上にはなれませんでした。勇気があればまた別の未来もあったのかもしれません。

 

 

ここで、両親との関係にも触れていく事とします。

離婚後も月1で母との面会をすることとなりましたが、これも自分にはかなりのストレスとなりました。母と会えること自体は嬉しくとも、母はたびたび父親の悪口や憎悪をぶつけてきたのです。そして父は、笑顔で帰宅しようものなら目に見えるように機嫌を悪くし、私たちに文句をぶつけます。弟は母からは特に言われなかったようですが、両親の板挟みにあう自分は次第にどちらにも本心を見せないようになりました。それが高校入学で誰にも本心を打ち明けないようになります。

 

昔からそうだったのでしょうけれども、父の発言は自分たちの意思に関わらず優先されるので、たびたび行きたくもない場所に行く、欲しくも無いものを与えられるなどの状況が起こりました。贅沢なことを言うなと憤慨する方もいるかもしれませんが、求めていないものを与えられても満たされる事はありません。

こうして、父に対する嫌悪感が少しづつ蓄積されていきます。

 

この頃から、俗にいう”希死念慮”を抱くようになりました。

 

 

長くなりましたが、これ以上ここで書き続けても冗長になりますので、続きはまた別に書きたいと思います。

 

ここまで、お読みいただきありがとうございました。