反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

飽食の時代と食物への感謝

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

 

昨日テレビを見ていたら大食い選手権みたいな番組をやっていたのですが、個人的には余り好きな類の番組では無いんですよね。というのも食べている量は凄いと思いますが、それ以上でもそれ以下でもないからです。

自分には他人が食事をしているシーンを見て楽しむということが出来ません。美味しそうに食べているならまだしも、大食いで序列を決めるという番組柄か苦痛に感じているようにしか思えないときがときたまあるからです。さらには、食べ方に品が無い。そして、用意されて日の目を見ることなく廃棄された食品があるであろうことを考えると悲しくなります。

ということで今回は、時勢と食品について書いていきたいと思います。

 

 

現代の日本はフードロスなどの過剰な食糧供給の問題がいくつがあることを踏まえると、空腹を満たして生きるだけの事はそこまで難しい国ではありません。食うに困る人も勿論いますが、食品の料は十二分にあるわけですから、それを食す側の問題です。選り好みしなければ食べる方法はままあると言えるのではないでしょうか。

しかし、このような状況がずっと続いてきたわけではありません。日本だけで見てもここ100年の間で食うに困る時勢は何度もあったでしょう。世界で見れば今でもその日の食糧が足りていない場所は多くあることでしょう。近代化し始めたころでもその有様なのですから、過去に遡ればもっと食に困ったであろうことは明白です。

食の供給の安定化に伴い農作物の改良や効率化が進むことはとてもいいことだと思いますし、それに伴って失業するというのもまた自然淘汰と言えるでしょう。しかし、これらは人間のエゴである事は間違いありません。生きるために食し、食の楽しみを増すために改良をする。そこまでは理解できます。しかし、食の娯楽化は許しがたいのです。

それは食品も自然の一部であったことを否定しているとしか思えませんし、人間を特別視し過ぎだと考えます。

 

 

「いただきます」「ごちそうさま」という言葉があります。この言葉は、いったい誰に向かっての言葉なのか考えたことはありますか。調理してくれた人に対しての言葉と考える人もいるでしょうし、ただの前口上と考える人もいるでしょう。しかし、自分は調理してくれた人に言う言葉であり、同時に皿を構成する食材に対する言葉であると考えています。もっと言うならば、食材となった生命に対する言葉です。何を当たり前なことをと思う人が多いのならば、自分としては嬉しいです。というのも、それが理解できていない人はこれからどんどん増えるだろうと思っているからです。

その根拠となるのは昨日の番組と学校給食に関する学校へのクレームです。

昨日の番組、10分程度しか見るに堪えなかったのですが、その間に「いただきます」はおろか、手を合わせるという動作すら見受けられませんでした。学校給食の一例はというと、給食費を収めているのだから子供に「いただきます」を言わせないでほしいというようなものです。これらからは食物に対する感謝の念は感じ取れませんし、後者にいたっては感謝どころか教養すら感じ取れません。

 

生物は何らかの方法で栄養の摂取が出来ないと、存在を継続することが出来ません。人間は植物のように土と日光から栄養を自力で生み出すことはできません。何かを食べる事で栄養の摂取を行ってます。

そこで何を食べるかというと野菜や果物、肉、魚です。大まかな分類わけをしましたが、それらも生命であり、人間の為に育てられていたとしても人間の為に生きていた訳ではありません。私はうどんしか食べませんとかのたまう痴れ者はいないと思いたいですが、そのうどんも小麦粉などから精製されたものです。

人間は他の種族の命を奪うことで生きています。

 

 

さて、ここで何故これから「いただきます」や「ごちそうさま」が食材に対する言葉なのか理解できていない人が増えるであろうと考えたかという事に戻らせてもらいます。

そう考えたことには、2つの理由があります。1つは教える側が減って行くであろう事で、もう1つは人間以外の生命との乖離が進むであろう事です。

 

教える側が減って行くであろう事は、核家族化と大きく関わっています。核家族化は親子世代と祖父母世代の別離というものですが、日常で子供の教育に接する大人の見識の幅が狭まる事に他なりません。

老年代はいずれ引退し若い世代の常識や教養が次世代に継がれていくわけですが、次世代がどこからも教わらなかった事がその次の世代に受け継がれるわけがありません。一番身近な大人が教えられなかったことが身につくとは到底思えませんし、親世代がしていない事はする必要が無い事と判断しても不思議ではありません。100年前から大体3,4世代しかたっていないであろう今の親世代ですら「いただきます」の意味合いを理解していないのであれば、その5,6世代目にに期待するのは難しいでしょう。

 

人間以外の生命との乖離という方に話を移しますが、皆さんは今の子供には魚が切り身で泳いでいると思っている子が少数ながらいるという話をご存知でしょうか。冗談みたいな話ではありますが、これは本当の話です。ここでは子細を語ることはしませんが、検索すればそういったニュースも出てきます。

さて、どうしてこういう子どもが登場するかと言いますと、推測ですが食品加工の現場を見たことが無いからでしょう。とはいえこんなことを言っていますが、自分も動物の解体作業は直に見たことはありません(笑)しかし、自分で釣った魚が調理されている場面は見ていますし、捕まえた生き物を餌に別の生き物を捕まえるという事は何度もしています。人間以外の命が変容するさまは何度も体感してきました。

ただひたすらに都市化を進めるには自然は必要ありません。しかし、自然は生物にとって大事な生活環境です。そこが無くなると、細々と生きていくかどこかに移り住むか、もしくはその場で息絶えるかの選択を余儀なくされます。それを繰り返してきた都市には、人間以外の生物は多く存在しません。そして、そんな場所で育つ子供が生命と乖離していく事になんら不思議はありません。

これらの事は都市への一極集中の弊害の一つだと考えています。目に見える問題ではないですが、これからの国の担い手の思考にかなり直接的な影響があることです。

 

 

とはいえ非力な自分が出来る事は何も思い浮かびません。というより、世の中に憂いは感じていれども関わっていくほど善良ではないのです。意識改革が必要でしょうが、その意識改革の対象は自分と同世代やもう少し上の人間です。自分には荷が重いと言わざるを得ません。

そんな自分に出来る事は、食材に感謝を示すこととそれを周りに見える形で行う事だけです。とても小さなことですが、これからも忘れないでやっていきたいと思います。

 

「いただきます」「ごちそうさま」は恥ずかしいことではありません。皆さんも何かを食す前に少しだけ食物を意識して貰えたら嬉しいです。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。