反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

他者との干渉を嫌う理由、とる行動

皆さん、こんにちわ。このブログの筆者のやくひなです。

 

人の行動に何かと口を出してくる人、身の回りにいるんじゃないでしょうか。仕事や冠婚葬祭などの公的な場での事なら、ある程度の正当性があれば改善する必要が有ると思います。しかし、私的な場での「~~したら」だとか「~~しないの」みたいな言い回し、不愉快で仕方がないのです。

自分は他人と干渉するのが嫌いです。干渉されるのは勿論のこと、干渉するのも好みません。だから、他人と必要以上に距離が近づくことをなるべく回避しています。

今回はどうして干渉を嫌うのか、そしてどういう行動に移るのかを記したいと思います。あくまで、自分の場合はというものなので誰にでも当てはまる訳ではないので悪しからず。

 

 

他者に干渉するというのは、責任が伴うことだと考えています。最近は社会的にもこの考えが顕著になってきているのか、困っている女子供にむやみやたらと関わるべきでないみたいな考えも広がっているように感じます。自分が悪くないのに巻き込まれるのは誰しも御免こうむりたいでしょうから仕方ありません。

そもそも、自分が干渉とはどういった状態だと認識しているかというと、”個人として人の意識に上がり、そのことで変化もたらす事”だと考えています。

何かを買うという行為一つとっても、ただ購入の手順を踏んだだけなら”数いる客の1人”でしかないですが、そこで話しかけるなどの行動を挟んだら”話しかけてきた客”に認識がずれる訳です。バタフライエフェクトやら風吹けば桶屋が儲かるなどの言葉もありますから、どちらの為にも余計な事はすべきでないという考えです。話しかけたせいで、店員が怒られることになったりしたら可哀想ですし。

 

しかし一部の人はその人なりの信条が有るのかもしれませんが、大多数は何気なしに他人に干渉します。良かれと思ってなのかもしれませんし、自分の威光を見せつけたのかもしれません。なんにせよ自分からしてみればろくでもない理由です。

他人の人生なんですから、必要以上に干渉すべきではありません。失敗しても責任は取らないのに、成功した時に私のおかげやら俺が育てたなどとのたまうのは図々しいにもほどがあります。

恋愛という行為も相互干渉を伴うものです。どちらか一方の思いが強くとも合意が無ければ独りよがりです。自分が幸せだから相手も幸せであるというのは、多くの場合で幻想でしかありません。どちらか一方が不満を押し殺しているというのは大いにありえることです。認識を共通のモノとするにはコミュニケーションが不可欠です。

 

 

コミュニケーションという言葉は人によって受ける印象が違います。友好や親密などの明るいイメージもあれば、摺り合わせ、面倒事などの暗いイメージもあります。

多くの人は無条件でするべきと考えているみたいに感じていますが、自分からしてみると面倒極まりないことで、出来る事なら回避したいものです。

だから、他人に必要以上に好意を持たれないよう考えて立ちまわっています。火のない所に煙は立たぬともいいますし、厄介ごとは根元から断ち切るようにしないと後々面倒になります。

友好的に見られるとそれを勘違いする人が現われるという、正のループにはまります。これは一般的には良いことなのでしょうけど、自分は望んでいないので負のループでしかありません。

 

 

血も涙もない冷たい奴だと思われそうだから、とりあえず弁明しますが、勘違いしないでほしいのは別に人助けをしない訳ではないという事です。困っている人がいたなら、周りに誰も手助けする人がいなそうかつ気乗りした場合には出来る事をします。助けてくれと懇願されたなら可能な範囲で手伝いますが、助けるのが当然であるかのように言うのなら構わず見捨てます。自分の状況を弁えられない人に手を貸すほど自分は優しくはありません。見返りがあるなら別ですが。

 

 

何が言いたいのか全く纏まっていない酷い文章ですね。

書いたので上げますが、読む価値あるとは到底思えない。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。