反社会的人間の戯言

底辺大学卒業の工場作業員の♂である自分を通して反社会的人間の思考回路を観測してみよう。  ※文章が支離滅裂なときが度々あります。

AUから格安SIMに乗り換えるときに忘れたくない事

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

先日、父のガラケーからの機種変に付き合った際、一緒にAUショップにて契約年数を確認してもらったところ、ちょうど2年契約の更新月だったので、UQモバイルに乗り換えてきました。そのときは全く気にも留めて無かったのですが、後から発覚したことがあったので、ここでとりあえず記しておきたいと思います。

人にはよりますが、これをし忘れるとだいぶ損した気分にはなるかと思いますので、AUの方は一応気に留めておいて損は無いと思います。

 

 

さて、AUから格安スマホに乗り換えるにあたって、現行機を向こうで使えるのかの確認やMNP番号の発効手続き、次の機種やプランの選択などで忘れがちになることがあります。

それは、auポイントau walletへのチャージ(変換)”です。

自分は完璧に忘れていました。次の機種への乗り換えでウッキウキだったんですもん(笑)

 

auの料金支払いのたびに、auポイントが溜まっていくわけなんですが、このポイントはauのサービスを利用している時にしかau walletへのチャージが出来ないんですね。というのも、チャージの段階がMy auなどのサービスを通じて行うのですが、このMy auは乗り換えの段階で一部のサービスが利用できなくなるわけです。

自分はUQモバイルですので、一部のサービスは継続して利用できていますが、これが別の会社だと全サービス利用不可になることも考えられます。

そうなってからでは遅いので、皆さんは普段からauポイントau walletの方に移していた方がいいと思いいます。自分は5000ポイントほど溜まっていたのに現金化できなくなって泣きを見ました。

 

 

そして、格安スマホに限らず、他社への乗り換えの際に気を付けるべきことだったのですが、”キャリアメールの外部ストレージやクラウドサービスなどでのバックアップ”も忘れないようにやったほうがいいです。乗り換えが初めてだったので失念していましたが、携帯会社が変わってメールアドレスのドメインも変わることになるので、これまでのメールが確認できなくなります。大事なメールなどが見れなくなったら悲しいでしょうから、しっかりとバックアップを取りましょう。ソシャゲのアカウント移動の案内などにそちらのアドレスを使っていたので、意外と困っています。

 

 

さて、UQモバイルに乗り換えて新機種として、OPPO R17 neoのブルーを迎えたわけですが、こいつOSが特殊なのか使い勝手が普通のAndroidと結構違うのでそこが気になりますね。画面サイズやディスプレイの発色なんかは今までと比べても申し分ないんですけどねえ。

多分そのうち、使用感なども記事にすると思いますので、気になる方はまた見てください。

 

最後にもう一度、AUから他者への乗り換えの際には、

auポイントau walletへのチャージ(変換)

・キャリアメールの外部ストレージやクラウドサービスなどでのバックアップ

以上の2点は忘れないように実行することをお勧めします。

 

 

短いですが、話を膨らませられないので終わりとさせていただきます。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

他者との干渉を嫌う理由、とる行動

皆さん、こんにちわ。このブログの筆者のやくひなです。

 

人の行動に何かと口を出してくる人、身の回りにいるんじゃないでしょうか。仕事や冠婚葬祭などの公的な場での事なら、ある程度の正当性があれば改善する必要が有ると思います。しかし、私的な場での「~~したら」だとか「~~しないの」みたいな言い回し、不愉快で仕方がないのです。

自分は他人と干渉するのが嫌いです。干渉されるのは勿論のこと、干渉するのも好みません。だから、他人と必要以上に距離が近づくことをなるべく回避しています。

今回はどうして干渉を嫌うのか、そしてどういう行動に移るのかを記したいと思います。あくまで、自分の場合はというものなので誰にでも当てはまる訳ではないので悪しからず。

 

 

他者に干渉するというのは、責任が伴うことだと考えています。最近は社会的にもこの考えが顕著になってきているのか、困っている女子供にむやみやたらと関わるべきでないみたいな考えも広がっているように感じます。自分が悪くないのに巻き込まれるのは誰しも御免こうむりたいでしょうから仕方ありません。

そもそも、自分が干渉とはどういった状態だと認識しているかというと、”個人として人の意識に上がり、そのことで変化もたらす事”だと考えています。

何かを買うという行為一つとっても、ただ購入の手順を踏んだだけなら”数いる客の1人”でしかないですが、そこで話しかけるなどの行動を挟んだら”話しかけてきた客”に認識がずれる訳です。バタフライエフェクトやら風吹けば桶屋が儲かるなどの言葉もありますから、どちらの為にも余計な事はすべきでないという考えです。話しかけたせいで、店員が怒られることになったりしたら可哀想ですし。

 

しかし一部の人はその人なりの信条が有るのかもしれませんが、大多数は何気なしに他人に干渉します。良かれと思ってなのかもしれませんし、自分の威光を見せつけたのかもしれません。なんにせよ自分からしてみればろくでもない理由です。

他人の人生なんですから、必要以上に干渉すべきではありません。失敗しても責任は取らないのに、成功した時に私のおかげやら俺が育てたなどとのたまうのは図々しいにもほどがあります。

恋愛という行為も相互干渉を伴うものです。どちらか一方の思いが強くとも合意が無ければ独りよがりです。自分が幸せだから相手も幸せであるというのは、多くの場合で幻想でしかありません。どちらか一方が不満を押し殺しているというのは大いにありえることです。認識を共通のモノとするにはコミュニケーションが不可欠です。

 

 

コミュニケーションという言葉は人によって受ける印象が違います。友好や親密などの明るいイメージもあれば、摺り合わせ、面倒事などの暗いイメージもあります。

多くの人は無条件でするべきと考えているみたいに感じていますが、自分からしてみると面倒極まりないことで、出来る事なら回避したいものです。

だから、他人に必要以上に好意を持たれないよう考えて立ちまわっています。火のない所に煙は立たぬともいいますし、厄介ごとは根元から断ち切るようにしないと後々面倒になります。

友好的に見られるとそれを勘違いする人が現われるという、正のループにはまります。これは一般的には良いことなのでしょうけど、自分は望んでいないので負のループでしかありません。

 

 

血も涙もない冷たい奴だと思われそうだから、とりあえず弁明しますが、勘違いしないでほしいのは別に人助けをしない訳ではないという事です。困っている人がいたなら、周りに誰も手助けする人がいなそうかつ気乗りした場合には出来る事をします。助けてくれと懇願されたなら可能な範囲で手伝いますが、助けるのが当然であるかのように言うのなら構わず見捨てます。自分の状況を弁えられない人に手を貸すほど自分は優しくはありません。見返りがあるなら別ですが。

 

 

何が言いたいのか全く纏まっていない酷い文章ですね。

書いたので上げますが、読む価値あるとは到底思えない。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

電子媒体への不信感

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

発売したての頃に購入してもらったPS2の電源が入らなくて困っています。年代物で、サポート終了、自力で修理するしかないのですがどこがイカれてるのか分からないときた。とりあえずばらして内部の清掃とスイッチ部のハンダ付けはし直しましたが前面の赤ランプが点灯しない。買い直すほどでもないからこそ、途方に暮れてます。

まあ、我が家のPS2事情はどうでもいいのです。

 

 

さて、今回の導入に移ることとします。

皆さんは現金派ですか、それとも現金以外での決済派ですか。自分はどうにも電子決済というものが信用しきれないので現金派です。クレジットカードはそれ自体は便利でしょうけど、自制心が足りない自覚があるので持たないようにしています。使わないなら現状は必要ないですし。

これは何もお金だけでなく、他の媒体でも同じです。書籍も音楽データもゲームも基本的に現物で購入します。時代にそぐわない拘りみたいに思えるでしょうが、これにも理由付けはちゃんとあり、メリットとリスクを考えての選択です。

今回は電子媒体のどこに不信感を抱いているのかを記していこうと思います。 

 

 

まずは電子書籍などの方から話していきたいと思います。

電子書籍や音楽データ、ゲームのダウンロード販売などは、とても便利なサービスだと思います。いつでも入手することが出来て、場所を問わず手元にあり、場合によっては安いときてます。これは使わなきゃ損と思えますが、自分としてはメリットとリスクがいいとこ半々にしか思えないんですよね。

現物至上主義みたいな考え方なので、転用できない。かつ、所有が確定しないというのはどうにもいただけないのです。

 

ここで言う転用とは、人との貸し借りや再現金化も指しての事です。人は不変の存在ではありえませんので、好みが変化するというのは自然なことです。そして好みに合わなくなったものは、不要な物と大差ありません。不要な物は余り手元に置いておきたくないので、譲渡や売買をしたいのですが、電子データはそうもいきません。データのみの譲渡販売は著作権を持たない個人に許されるものではありません。しかし、本体ごとの手放すのは厳しいものがあります。

 

所有が確定しないというのは、予期せぬ事態で使用が不可になる事を言いたいのです。電子データの管理方法は2種類あって、アカウントに紐付けされるか機器に紐付けされるかで違います。どちらがいいというのは一概には言いにくいですが、どちらも不慮の事態で利用に制限が掛かります。

アカウント紐付けの場合は、少し前にピエール瀧が逮捕された際に電気グルーヴの楽曲が配信停止になったように、管理側にデータの使用が一任されているので、サービス終了した際には一切使用できなくなるというデメリットがあります。しかし、複数の機器で利用できるので便利なのは間違いないでしょう。

逆に機器紐付けの場合は、先の例のように配信停止にはなりえませんが、機器に重大な不具合が起きた場合に全ての利用が出来なくなり、同じデータを利用するには再度入手する必要があります。

 

現物で所持する場合にはこれらの事を心配する必要はありません。もちろん、現物は汚損しますし経年劣化もしますが、これらは自らの管理でどうにか出来る事ですし、代替もそれなりにききます。そしてこれが自分としては重要なのですが、全ての商品が電子媒体化しているというわけではありません。マイナーな作品は電子化しないのでそれらの選別をしないで済むのが現物で所持することのメリットと言えるでしょう。

何でもそうですが現物を所有しているというのは、±は別として資産を持っているという事です。どちらがいいかは人によるかと思いますが、自分は部屋が散らかっても好きなものは所持していたいと思います。

 

 

次に電子決済について話していきます。

電子決済については正直あまり詳しい訳でも無いので、食わず嫌いの面はありますが、それでもリスキーな感じがして手を出す気になれません。

というのも、現在の日本の支払い方法は、大まかに現金,カード,電子決済の3つに分けられると考えていますが、電子決済を選択する必要性を見いだせていないのです。大体の場所で現金は使えますし、現金不可の場所はまず間違いなくカード決済に対応しています。現金や財布を持たなくてもいいというだけで、電子決済に移行する意味が自分には分かりません。スマホひとつで決済できるというのはスマートではありますが、スマホを紛失した際に無一文であるという事と変わりありません。現金を財布で持ち歩き、かつ電子決済を使うというのが理想なのかもしれませんが、それは必要なことなのかと懐疑的です。ポイントが付与されることも多く、若干安くあがるというのは魅力的ではあります。

 

外国でカードや電子決済での支払いが一般的なのは、貨幣自体の信用が薄いことも有るかと思います。日本は偽札が横行するような事は現在のところありません。それを考えると別に現金を毛嫌いする理由が無いのです。そして、自然災害が多くないことも一因でしょう。電力が安定的に供給される国なら、カードや電子決済はいつでも使える便利な物でしょう。しかし、地震大国の日本は度々一部の地域での電力供給がストップしています。ここ5年間でも、複数回の震災が起こって、その度に該当地域では電力供給がストップしていました。

カードも電子決済も電力が必須です。勿論、レジのキャッシャ-を動かすにも電力は必要ですが、現金が有れば会計自体は不可能ではありません。しかし、カードと電子決済は不可能と言えるのではないでしょうか。

これまで自分のいたところは地震に遭ってないから平気というのはたまたま運がいいだけで、いつ自分がまきこまれるか知れたものではありません。そういう時の為にも、ある程度の現金は持っていて然るべきだと思います。

 

資本主義という制度は正直好きでないですが、お金というのはよく考えられています。少しの利便性の為に電子化を進めてわざわざ損失を被らなくてもいいのではないかと思っています。

 

 

現物も電子媒体もどちらもメリットはありますし、デメリットは存在します。

これらはどちらが良いというものでもないので、どちらかに傾倒し過ぎず必要に応じて利用するべきです。大衆に流されるままに利用して、損失を被ったとしても誰も補填してくれません。自分の行動は自分で決めたいものです。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

飽食の時代と食物への感謝

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

 

 

昨日テレビを見ていたら大食い選手権みたいな番組をやっていたのですが、個人的には余り好きな類の番組では無いんですよね。というのも食べている量は凄いと思いますが、それ以上でもそれ以下でもないからです。

自分には他人が食事をしているシーンを見て楽しむということが出来ません。美味しそうに食べているならまだしも、大食いで序列を決めるという番組柄か苦痛に感じているようにしか思えないときがときたまあるからです。さらには、食べ方に品が無い。そして、用意されて日の目を見ることなく廃棄された食品があるであろうことを考えると悲しくなります。

ということで今回は、時勢と食品について書いていきたいと思います。

 

 

現代の日本はフードロスなどの過剰な食糧供給の問題がいくつがあることを踏まえると、空腹を満たして生きるだけの事はそこまで難しい国ではありません。食うに困る人も勿論いますが、食品の料は十二分にあるわけですから、それを食す側の問題です。選り好みしなければ食べる方法はままあると言えるのではないでしょうか。

しかし、このような状況がずっと続いてきたわけではありません。日本だけで見てもここ100年の間で食うに困る時勢は何度もあったでしょう。世界で見れば今でもその日の食糧が足りていない場所は多くあることでしょう。近代化し始めたころでもその有様なのですから、過去に遡ればもっと食に困ったであろうことは明白です。

食の供給の安定化に伴い農作物の改良や効率化が進むことはとてもいいことだと思いますし、それに伴って失業するというのもまた自然淘汰と言えるでしょう。しかし、これらは人間のエゴである事は間違いありません。生きるために食し、食の楽しみを増すために改良をする。そこまでは理解できます。しかし、食の娯楽化は許しがたいのです。

それは食品も自然の一部であったことを否定しているとしか思えませんし、人間を特別視し過ぎだと考えます。

 

 

「いただきます」「ごちそうさま」という言葉があります。この言葉は、いったい誰に向かっての言葉なのか考えたことはありますか。調理してくれた人に対しての言葉と考える人もいるでしょうし、ただの前口上と考える人もいるでしょう。しかし、自分は調理してくれた人に言う言葉であり、同時に皿を構成する食材に対する言葉であると考えています。もっと言うならば、食材となった生命に対する言葉です。何を当たり前なことをと思う人が多いのならば、自分としては嬉しいです。というのも、それが理解できていない人はこれからどんどん増えるだろうと思っているからです。

その根拠となるのは昨日の番組と学校給食に関する学校へのクレームです。

昨日の番組、10分程度しか見るに堪えなかったのですが、その間に「いただきます」はおろか、手を合わせるという動作すら見受けられませんでした。学校給食の一例はというと、給食費を収めているのだから子供に「いただきます」を言わせないでほしいというようなものです。これらからは食物に対する感謝の念は感じ取れませんし、後者にいたっては感謝どころか教養すら感じ取れません。

 

生物は何らかの方法で栄養の摂取が出来ないと、存在を継続することが出来ません。人間は植物のように土と日光から栄養を自力で生み出すことはできません。何かを食べる事で栄養の摂取を行ってます。

そこで何を食べるかというと野菜や果物、肉、魚です。大まかな分類わけをしましたが、それらも生命であり、人間の為に育てられていたとしても人間の為に生きていた訳ではありません。私はうどんしか食べませんとかのたまう痴れ者はいないと思いたいですが、そのうどんも小麦粉などから精製されたものです。

人間は他の種族の命を奪うことで生きています。

 

 

さて、ここで何故これから「いただきます」や「ごちそうさま」が食材に対する言葉なのか理解できていない人が増えるであろうと考えたかという事に戻らせてもらいます。

そう考えたことには、2つの理由があります。1つは教える側が減って行くであろう事で、もう1つは人間以外の生命との乖離が進むであろう事です。

 

教える側が減って行くであろう事は、核家族化と大きく関わっています。核家族化は親子世代と祖父母世代の別離というものですが、日常で子供の教育に接する大人の見識の幅が狭まる事に他なりません。

老年代はいずれ引退し若い世代の常識や教養が次世代に継がれていくわけですが、次世代がどこからも教わらなかった事がその次の世代に受け継がれるわけがありません。一番身近な大人が教えられなかったことが身につくとは到底思えませんし、親世代がしていない事はする必要が無い事と判断しても不思議ではありません。100年前から大体3,4世代しかたっていないであろう今の親世代ですら「いただきます」の意味合いを理解していないのであれば、その5,6世代目にに期待するのは難しいでしょう。

 

人間以外の生命との乖離という方に話を移しますが、皆さんは今の子供には魚が切り身で泳いでいると思っている子が少数ながらいるという話をご存知でしょうか。冗談みたいな話ではありますが、これは本当の話です。ここでは子細を語ることはしませんが、検索すればそういったニュースも出てきます。

さて、どうしてこういう子どもが登場するかと言いますと、推測ですが食品加工の現場を見たことが無いからでしょう。とはいえこんなことを言っていますが、自分も動物の解体作業は直に見たことはありません(笑)しかし、自分で釣った魚が調理されている場面は見ていますし、捕まえた生き物を餌に別の生き物を捕まえるという事は何度もしています。人間以外の命が変容するさまは何度も体感してきました。

ただひたすらに都市化を進めるには自然は必要ありません。しかし、自然は生物にとって大事な生活環境です。そこが無くなると、細々と生きていくかどこかに移り住むか、もしくはその場で息絶えるかの選択を余儀なくされます。それを繰り返してきた都市には、人間以外の生物は多く存在しません。そして、そんな場所で育つ子供が生命と乖離していく事になんら不思議はありません。

これらの事は都市への一極集中の弊害の一つだと考えています。目に見える問題ではないですが、これからの国の担い手の思考にかなり直接的な影響があることです。

 

 

とはいえ非力な自分が出来る事は何も思い浮かびません。というより、世の中に憂いは感じていれども関わっていくほど善良ではないのです。意識改革が必要でしょうが、その意識改革の対象は自分と同世代やもう少し上の人間です。自分には荷が重いと言わざるを得ません。

そんな自分に出来る事は、食材に感謝を示すこととそれを周りに見える形で行う事だけです。とても小さなことですが、これからも忘れないでやっていきたいと思います。

 

「いただきます」「ごちそうさま」は恥ずかしいことではありません。皆さんも何かを食す前に少しだけ食物を意識して貰えたら嬉しいです。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

計画を立てる事への嫌悪感

みなさん、こんばんわ。このブログの筆者のやくひなです。

 

平成も終わり本日より令和が始まったわけで、世間は少し浮ついている感じを受けました。しかし、自分としては暦が4月から5月に変わっただけです。これからどんどん暑くなっていくと考えるだけで憂鬱です。

 

 

さて、ゴールデンウィークも数日経過しましたが、皆さん予定はありますでしょうか。実家に帰省するって人もいれば、海外旅行に行くという人もいるでしょうし、そもそもゴールデンウィークなんて無いという人も多いかと思います。

無職の自分はというと、別に予定はありません。毎日ゴールデンウィークみたいなもんですし、わざわざ混んでる時期に出かける必要もないと思っています。しかしながら、そもそも計画を立てる事を嫌っているというのが実情です。今回は、何故計画を立てる事が嫌いなのかについて書いていきたいと思います。

 

 

まず、出かける事が嫌いなのかというとそうでもありません。ぶらっとどこかに行くのは好きですし、それなりに活動的です。嫌いなのは、他人と出かける事です。人が多い場所も好きではないですが、まあ今回は置いておきます。

何故他人と出かけることが嫌いなのかというと、以前も書いたかもしれないですが自分の思い通りにことを運べないからです。別に何時何分に電車に乗ってみたいなのも嫌ではありますが、どちらかが折れたり折衷案を探しながら一日を過ごすという行為が面倒で仕方ありません。そんなことをするなら、一人でいい。

そして、もう一つの理由としては予定を立てなければいけないからです。時間と場所を決定する作業も面倒くさくて遠慮したいですが、それ以上にその日の行動が事前に決定するという事が辛くて仕方ありません。

移り気なのを自覚している自分としては、当日の気分は今とは違うものだと身をもって知っています。目的地に行きたいのはその日であって、別の日ではありません。予定日にその行動をしたくないというのも日常茶飯事です。それでも予定を立てたからには何かしら行動せざるを得ません。それが苦痛で堪らないのです。

 

予定を立てるというのは約束を交わすという事だと認識しています。友人の場合は当然自分と友人間での約束です。これは理解される事だと思います。そして、一人行動でも同様です。対象が友人から未来の自分に変わっただけです。こちらは人によっては理解できないかと思います。

約束は守ることを前提として交わされるものです。守られない約束は何の意味も持ちません。仮に気分が乗らなかったとしても、何かしらの行動は必要になります。

ここでの行動は2つあり、1つは気乗りしない自分を抑え込んで約束を果たすこと。そしてもう1つは、何かしらの理由を捏造して約束を反故にすること。このどちらかしかありません。結構約束を反故にすることは多いですが、その都度罪悪感は感じています。屑野郎ではありますが、別に血も涙もない訳ではないのです。

これまでの経験から気乗りしない場合には何かしら言葉にならない理由がある事を理解しているので、申し訳ないとは思いながらも理由を作ります。自分のコンディションが最重要なのは間違いないですが、人間は同じ時間を過ごす人の気分で喜怒哀楽の感情を変化させることも理解しているので、楽しめない自分が同行したとて有意義な時間には程遠くなるだろうと察しての行動です。

 

これを踏まえて、自他共に不愉快な思いをしない為の行動として、一人行動が選択される事が増えました。一人行動なら不愉快な思いをする他人は存在しませんし、不愉快な思いをさせる他人もまた存在することはありません。不愉快な思いをするのは自分だけで十分です。自分だけなら、突発的な行動もどうにでもできますから、自分の性にもあっていました。

計画を立てることが出来ないのかというと、得意ではないですが無理なくできます。そして、ちゃんとスタートできればある程度問題なく進みます。しかし、立てても実行されない計画は無意味なので、立てる事は余りありません。

 

 

ここまで書いてきて思ったことは、もしかしなくとも計画を立てる事への嫌悪感なのではなく計画を実行できない自分への嫌悪感で、嫌悪感から逃れるために計画を立てないんでしょう。原因が生まれる事が無ければ、嫌悪する理由が無い。実に自分らしい哀れな考え方だと思います。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

発言者と主張内容を関連付けて評価する事のおかしさ

皆さん、こんにちは。このブログの筆者のやくひなです。

近くのショップのビンゴ大会で珍しくビンゴだと思ったら、景品はぬいぐるみで自分らしいと落胆しました。消耗品か実用品が欲しかったです。

 

 

皆さんは、情報の正当性をどうやって評価していますか。

偉い人が言っているから正しい。嫌いな人が言っているから間違っている。

そのような判断基準で発言の正当性を評価している事あるんじゃないですか。

でも、本当に偉い人は正しいことしか言わず、嫌いな人の言う事は間違っているのでしょうか。

今回は、そんな感じの事を考えていきたいと思います。

 

 

まず、最初に断っておかなければならないこととして、別に自分は知識が無い事を悪と断ずるつもりは無いという事です。人はそれぞれ興味の分野が違います。何かの専門家であれ専門分野には精通していても、その時の大衆の流行に疎いという事は良く有ることでしょう。

知らないことは罪だと自分は思いません。しかし、知らないということを認識しない・認めないのは、罪であると言えるでしょう。思考することを放棄するなどもってのほかです。何のための脳味噌ですか。

 

分かりやすいように以下に例を挙げます。

偉い人がカラスは黄色であると言っても、大多数の人はそんなわけないと一蹴するでしょうし、生物学者が言ったとして同様の反応をするでしょう。ここで疑い無しに信用する人は、発言者の信者かカラスを誤認している人です。

次に、偉い人がカラスにも白色個体が存在すると言ったのならばどうでしょうか。これも大多数は同様にそんなわけないと一蹴するでしょう。では、生物学者が同じ事をいった場合はどうでしょうか。

同じ発言ですが、信用性が高まりましたよね。これが発言者の権威で発現内容の信憑性が上下した状態です。

今度は、生物学者がカラスに白色の個体は存在しないと主張し、偉い人はカラスに白色の個体は存在すると主張しているとしましょうか。これは人によってどっちが正しいかの判断が分かれるのではないでしょうか。

発言者の権威をもってどちらが正しいと判断する人と自分の知識をもって支持する対象を決める人に分かれるかと思います。学者の発言だから正しいと判断した人は、発言者の権威を妄信した状態と言えるでしょう。

ちなみに、黄色いカラスは未だ未発見ですが、白いカラスは複数の発見例が上がっています。いるのだろうと思ってはいましたが、本当にいるとは驚きです。

 

権威と発言内容の正当性には直接的な関連はありません。偉い人でも学者でも、人間であることには変わりないので、嘘をついたり間違ったことを言う場合もあるわけです。犯罪者でも同様で、正しいことも真実もいう訳です。それじゃあどうやって物事判断すればいいと憤る人もいるかもしれませんが、発言内容の正当性だけを判断すればいいのです。判断するには知識が必要ですから考える事を習慣づければいいのです。

 

 

また、議論の場において「素人が口を出すな」「不細工だからだろ」「女は黙ってろ」みたいなレッテル貼りや人身攻撃を度々目にしますが、これもどうなのかと常々思っています。

というのも、これらを言った側は黙らせてやったと鼻高々でしょうけれども、この発言自体にその人の主張に対する反論が含まれていないからです。別に素人だろうと不細工だろうと女だろうと、発言する権利自体は平等です。あまりにも論旨を理解していない場合ならそれも致し方ない事かなと思いますが、自分にはこういった発言は主張に対する反論が見つからなかった事をごまかすための負け惜しみにしか思えません。

自論の正当性を理解しているならばそれに応じた返答を用意できるでしょうし、返答をしてしかるべきだと考えます。まあ、自分の姿を晒さずに発言できるから蔓延していると言われたらそうなのかもしれないとは思いますが、別にそれも正当化する理由にはなりえません。

 

 

情報化社会としてインターネット技術が発達し情報の発信が容易になったことで、情報の受け手の取り捨て能力とリテラシーが以前よりも求められるようになったはずですが、それを教える側は情報化社会に適応できているのか疑問を持つような人材が多いように感じています。

適応している人はインターネットを介した自己承認欲求の充足に躍起になって木乃伊取りが木乃伊になり、適応できていない人は冷めた目で見ながら自分達が劣っているのではないと自己弁護に躍起になる。まさに糞みたいな世の中です。

 

 

情報に触れる事が容易になった今だからこそ己を必要以上に大きく見せることを望まず、情報発信者と情報内容を混同しないように意識することの必要性を強く感じています。膨らみ過ぎた自意識は自己の過大評価と真実を見分けられない目しかもたらしません。もっと等身大の自分を見つめる時間を持つべきだと考えています。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

金は使ってこそ意味を持つ

皆さん、こんにちわ。このブログの筆者のやくひなです。

この間、初めて金券ショップを利用したのですが、地味にありがたいものですね。気持ち程度しか安くならないと軽んじていましたが、塵も積もればなんとやらといいますし、これからも度々利用したいと思いました。ちなみに、購入した品は図書カード5000円分です。4800円でした。

 

 

今回は、お金に関しての話を書いてみたいと思います。

会社勤めの人は勤め先に何事も無ければ定期的に給料が入ってくると思います。しかし、自分みたいな無職は違いますし、フリーランスや自営業などにあたる人も違います。経営者も同じく賃金は発生するものではありません。

会社員ではない人にとっては、基本的にお金は入ってくるものではありません。自らの能力で工面するものです。基本的にというのは、座っているだけでお金が入ってくる人も少数ながらいるだろうからです。

下世話な話ではありますが、自分がブログを開設にもそういった意図が無い訳ではありません。自分が好き勝手言える場が欲しかったというのはありますが、文章を作るという行為をお金に繋げるにはとりあえず何かしら書く必要が有るだろうと考えた結果です。

 

貯蓄を多分に保持している訳ではない労働嫌いの自分はどうにか労働以外の方法で収入を得て、必要のない場所では出費を減らすということをせざるをありません。

そういう状況なので、お金というものを考える時間が増えたのですが、そもそもお金ってなんなんでしょう。

 

 

自分の出した結論は、”生活圏において共通の価値を持つただの紙きれ”というものでした。

この結論もまだ考えが足りないのかもしれないとは思いますが、ただの紙切れであるのは間違いないと思っています。これは外国の通貨の日本における価値を考えれば分かる事なのですが、日本で外貨は一般的に使用できません。何故かというと、共通の価値認識が成されないからです。

日本の紙幣とその倍の金額に相当する外貨の交換を求められて交換する人がどれだけいるのか想像してみると分かるかと思います。日本での事なら交換する人はあまりいないのではないでしょうか。資産としては倍になっている訳ですから交換するのが得なはずですが交換に応じないのは、日本における資産としての価値が薄いからでしょう。逆にその外貨が使える国での事なら喜んで応じるのではないかと思います。資金が倍以上になるわけですから。

これらをふまえて上記の結論が導き出されました。そして、見出しの使ってこそ意味を持つという認識に至りました。溜めこむだけではしょうがないという判断です。

 

 

皆さんご存知の通り日本の銀行には利息というものが存在しています。存じないという人は、お金の使い方を見直すべきだと僭越ながら申し上げます。しかしながら、その利息は昔と違い雀の涙にも満たない金利となっています。いくら貯蓄していたら、1回のATM手数料分の利息が出ることやら。

そのことを考えると銀行に眠らせておくのはもったいないと言わざるを得ません。別の形の資産に変化させることが望ましいといえるでしょう。自分は昨年、仮想通貨に数万つっこんで塩漬けにしてあります。落ちすぎて現金化する気にもなりません(笑)

 自分はマイナスを出した側でありますが、当然あれだけニュースになった訳ですからプラスになった人もいるわけです。何が違うのかといいますと、どれだけリスクを恐れなかったかだと思います。プラスになった人は、もっと前の段階から開始していた。マイナスになった人は、出遅れた。それだけの話です。

 

別に仮想通貨みたいなギャンブルじみた事をするべきなんて言うつもりは毛頭ありません。それでも家計を少し見直して積立NISAでも、株式投資でもいいから余剰資金は運用すべきだと思っています。どちらも何の心配もなくお金が増えるというたぐいのものではないですが、銀行で埃かぶっている事を良しとするよりよっぽどいいと思います。

株式は一定量所持していると優待が受けられることも有るので、節約にも繋がると言えなくもないでしょうから結構良いのかなと自分は考えています。

 

自分はお金を集める行為に一切のリスクが無いというのはまずありえないと思っています。ローリスクだと考えられる会社員ですら、会社に自分の未来を預けるリスクを背負っている訳です。これをリスクと捉えられない人は劇的な変化は望むべくもありません。一生会社にごはん食べさせて貰えるといいですね。

フリーランスや経営者の人は、自らの行動におけるリスクの多くを自ら引き受けることで利益を上げています。無職は人生を棒に振ることも考慮の上で、無職でいます。その人なりの事情や行動原理があるので、ただ羨み妬むのはお門違いです。

年金支給年齢の繰り上げがニュースで度々取り上げられる中で、薄々感じている人も多いかと思いますが、自らの老後を安心して国に任せられる時代は終わりを迎えつつあります。国には任せられないですが、このままならお金は必要不可欠です。となると、自らで老後資金を工面できなければなりません。

 

 

成り上がりたいなら、頭を使って必要なリスクを選択する必要が有るでしょう。そうでなくとも、資産運用はできるに越したことは無いでしょう。

何事でもそうなのですが女神が微笑むのは、多くの場合で自ら行動した者に対してです。指を咥えて羨んでいる者にではありません。

こんなこと言ってはいますが、自分の進みたい方向が未だに定まらない自分はいったい何をしたらいいんでしょうね。進みたい方向は見えているけど進めないのか、進みたい方向が見えていないのかすら、自分では分からない状況です。困ったものです。

 

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。